紋中紋の作品たち 『八岐の園』『旅芸人の記録』


ボルヘスの短編『八岐の園』は、無限に分岐する時間と未来のその可能性を、かすかな語りで伝えるボルヘスらしい奇妙な小説である。
主人公の兪存(ユソン)博士はドイツの二重スパイである。スパイ仲間の死によって自分にも危険が迫っていることを知った兪存は、スティーブン・アルバート博士の家に向かう。アルバート博士は、兪存の祖先にあたる崔奔(サイペン)の研究家であり、子孫にあたる兪存に、崔奔の残した『八岐の園』とよばれる一冊の書籍を見せる。
兪存が言うように、『八岐の園』は「本といってもそれは、矛盾だらけの原稿の雑然とした塊にすぎない。いつか調べたことがあるのですが、第三章で死んだはずの主人公が、第四章で生きているというぐあい」の不完全なものであった。しかしアルバート博士は、崔奔が仕事を引退したあと、迷路をつくろうと思い、また本を書こうと思ったのではなく、誰も気がつかないだけで、そのふたつの仕事がひとつのものであったのだ、と言う。それがこの『八岐の園』であるのだ。『八岐の園』は無限に広がるさまざまな未来を含めた書籍であり迷路そのものなのだ。
アルバート博士は言う。「ニュートンやショーペンハウアーとことなり、あなたのご先祖は均一で絶対的な時間というものを信じていなかった。時間の無限の系列を、すなわち分岐し、収斂し、平行する時間のめまぐるしく拡散する網目を信じていたのです」
つまりいくつにも分岐する未来の可能性を、崔奔は一冊の迷宮のような書籍に仕上げたのだ。
だから兪存は「時間は永遠に、数知れぬ未来に向かって分岐しつづけている(中略)そのうちのひとつでは、わたしはあなたの敵であるはずです」というアルバート博士を背後から殺害する。
ボルヘスのこの小説は、ロールプレイングゲームのマルチシナリオを先取ったものだ。ウンベルト・エーコは『八岐の園』を評して「ボルヘスはハイパーテキストを予見していた」と言ったそうだ。ボクにはどちらかというとマルチシナリオの、書籍というものからの脱構築をなし遂げたアナーキーな力を感じる。はじめから終わりへ向かうことで矛盾が生じる書籍というものは、そのまま無限に円環するしか方法のない迷宮でしかなく、書籍というものが、その意味において書籍を脱出し、破壊しようとしている。だから迷宮と本とを分離して考えた場合には、崔奔の散文は破綻しており、「矛盾だらけの原稿の雑然とした塊にすぎない」ように思われるのだ。

このボルヘスらしい循環する書物の物語の中で、アルバート博士は崔奔の言う「循環する円環的な物語」の例として『千夜一夜物語』をあげる。筆写係の奇跡的な手違いによって、シェラザードはまた同じ前日の話をスルタンにしなければならず、彼女は無限に同じ24時間を生き続けることになった、あの話である。
また、このブログでも何度か紹介している『ドン・キホーテ』作中で、セルバンテスが実はこの『ドン・キホーテ』という小説は、シデ・ハメーテ・ベネンヘーリというモーロ人の手になるアラビア語の原稿をバザーで買ったものを訳したのだと告白する驚愕の挿話も語っておいたほうがいいだろう。

ベラスケス「女官たち」

一見ちがったものに見えるこれらの話は、「紋中紋」という概念でまとめることができる。
「紋中紋」はもとももと紋章の中にさらに紋章が描かれたものを指す紋章学の言葉であったそうだ。しかし有名なのは絵画においてである。
もっとも有名なのはベラスケスの「女官たち」だろう。部屋の背後に飾られた絵や、女官やマルゲリータや画家自身がのぞき込み、おどろくべきことにキャンバスの裏側まで写り込んだ、絵画のさらにこちら側、つまり絵をみている人間と同じ位置にあるはずの巨大な鏡などが紋中紋の概念をみごとに表現し、さらに二重三重の意味によって見る者を惑わし、魅了する。
あるいはファン・エイクの「アルノルフィーニ夫妻像」では夫婦の背後、壁に掛けられた丸鏡に、絵画では正面を向いている夫婦の後ろ姿とファン・エイクと思われる画家が写り込んでいる。このように、ひとつの絵の中に別の絵がある、あるいは絵の中に同じ絵が描かれている、またあるいはそれらが無限に続いてるような技法のことを紋中紋という。
この概念と用語を文学の世界に持ち込んだのはアンドレ・ジイドがはじめてだという。たんなる自伝ではなく、物語の中に物語があり、作品の中に作品があり、ベラスケスやファン・エイクの鏡のように無限につづき、物語という概念や枠組みを破壊しかねない要素をはらんだ、素人受けのしない一種の技法のことである。



映画では「旅芸人の記録」が紋中紋の好例である。
作中、主人公ら旅芸人は19世紀の牧歌劇「羊飼いのゴルフォ」を上演しながらギリシャを旅する。「羊飼いのゴルフォ」はギリシャの悲恋をうたったものである。作中、旅芸人仲間のエレクトラは母親からゴルフォの役を譲られ、ゴルフォの恋人タソスを演じるはずであったオレステスは兵役により一座をさってしまう。劇と実際のできごとが複雑にからみあっており、見ているものはどこまでが「羊飼いのゴルフォ」で、どこまでが一座の物語かわからなくなってくる。さらにエレクトラの母クリュタイムネストラは親ファシストのアイギストスと密通し、エレクトラはそれを発見し苦悩する。この話と登場人物はそのままギリシャ三大悲劇作家のひとりアイスキュロスの古典『オレステイア』の物語である。映画の中にそのまま『オレステイア』の物語がいちばん外側のワイヤーフレームとしてはめ込まれており、さらにその内側に「羊飼いのゴルフォ」の物語が存在し、さらにその内側に「ゴルフォ」を演じる役者たちの日常が、長く大きなギリシャ近代史という流のなかにぷかぷかと浮いている状態なのだ。
さらにおそろしいのは、連続しているはずの一座の記録が、実は個々の役者が語った記憶のよせあつめであることだ。なかでも驚くのは、秘密警察に連行され強姦されたエレクトラが、そのあと立ち上がり、つかつかとカメラの前まで歩いてくると、そのままカメラをみつめたまま観客に対してギリシャ内戦の様子を語る場面だ。「羊飼いのゴルフォ」でゴルフォの役をつとめる旅芸人の役者が、役者であることを捨てて狂言回しになり、さらに映画の中の役さえ捨てて歴史の証人として語り始めるのだ。
「旅芸人の記録」においての紋中紋とは、何重にも、しかし微妙にずれた状態の入れ子構造になった、むしろこの映画そのものの構造である。


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