夢オチでムカつかない作品 『老いぼれグリンゴ』『ビアス短篇集』『10ミニッツ・オールダー』

藤子F不二雄の、連載途中で中断してしまった人気マンガ『T・Pぼん』の中で、洞窟の奥にある時空のゆがみから未来へタイムワープしてしまった19世紀後半の作家を救う話がある。主人公ぼんとヒロインのユミ子は作家をみつけだしもとの世界にもどろうと話すが、作家はこの世界が気に入ったといって帰ることを拒み、そのまま未来にとどまる。
この、タイムワープしてしまった19世紀後半の作家のモデルこそ、かの有名な『悪魔の辞典』の著者アンブローズ・ビアスである。彼は内戦の最中にメキシコに入り、そこで一切の消息をたってしまう。行き止まりのはずの洞窟に入ったまま永遠に出てこなくなったという噂もまことしやかに語られている。

しかし彼は本当はその後も長らく生きており、メキシコ革命の運動家パンチョ・ビリャ率いる革命軍とともに自分の死に場所を求めて行動していた、というのが、メキシコの作家カルロス・フエンテスの書いたフィクション『老いぼれグリンゴ』である。グリンゴというのはメキシコにおけるアメリカ男性の蔑称であるが、その老いぼれたグリンゴの目には、アメリカの影としてのメキシコ、殺戮を好まなかった植民地政策の失敗作としてのメキシコを通して、祖国アメリカのゆがんだ現実が見えていたのであった。
実際ビアスは失踪の直前までパンチョ・ビリャの革命軍とともに行動していたそうだ。希代の皮肉屋で物事を斜めから見ることに長けていたジャーナリストでもあったビアスが、メキシコ革命のルポルタージュを書いていたらどのようなものになったか、考えるだけでわくわくする。

またビアスは短編の名手でもあった。そのなかでも秀一なのが『アウル・クリーク橋の一事件』である。主人公である農場主ペイトン・ファークハーは南北戦争においてテロ活動の廉で死刑となり、首に縄をつけられてアウル・クリーク橋の上から吊される。しかし幸いにも死刑執行の瞬間に縄が切れ、川に転落したファークハーは敵の撃つ弾をかいくぐり、南部の深い森の中を逃走する。経験した過去のできごとを思い出しながら彼が目指すのは、自分の農場で待つ妻と子供のところである。そこにいけばすべてが終わり、やすらぎが得られるのだ。そしてとうとう我が家の扉をあけ、愛おしい妻を抱きしめようとした瞬間、アウル・クリーク橋から吊された縄が彼の首を絞め、ファークハーは死ぬのであった。
いわゆる「夢オチ」である。
夢オチは卑怯で怠惰な手段か、もしくは外的な要因による連載中断の後始末でしかないとおおかたの読者は思うだろう。しかしここであげたビアスの短編は、反戦の方法として「はかなさ」を時制の魔術により表現しているのだ。
バルガス=リョサもこの『アウル・クリーク橋の一事件』について「フィクションの時間は現実のそれとは本質的に異なる時間、もしくは異なった時の流れであり、フィクションの登場人物や語り手と同様に創造された時間」であると書いている。
兵士でもあるファークハーは、戦争という人間同士の社会的メカニズムから自由になることはできない。この世の中で社会的メカニズムにより死刑を宣告されたものは、どれだけ望もうと妻にあうことはできないし、自由も時間も社会が決定したもの以外はなにも持つことはできない。しかし、彼が愛する妻と子のもとに帰りたいと思った精神の運動はたしかに彼の内部で存在しており、ビアスはその強烈であるはずの運動を、彼の首が締め付けられてから絶命するまでの一瞬の自由に託して表現したのだ。だからそれが彼のはかない夢であったということに驚けば驚くほど、かえって戦争という現実時間の非人間的な側面が浮かび上がるのである。

それは夢オチの古典とも思える、『枕中記』に書かれた「邯鄲の枕」でも同じである。
趙の時代の廬生という男が茶屋で呂翁という道士とであう。廬生はせまい田畑を耕すだけの今の生活に満足しておらず、呂翁に自分の身の不平を言う。すると呂翁はひとつの枕をとりだしてこれで寝ろという。廬生が言われたとおりにその枕で寝てみると、独身だった廬生に非常な裕福な名家から美しい嫁がくることになった。妻に勧められるまま官僚試験を受けるとすぐに合格し、役人としてみるみる出世する。廬生を見こんだ上司から東夷征伐軍の司令官に抜擢されみごと勝って凱旋し、役人としては最高位の宰相にまで出世する。しかしえん罪で起訴されたり、それを恥じて自害しようとしたところをすんでの所で級友に助けられたりし、その後官僚退職をなんども皇帝に上申するがかなわず、それでも齢80にしてたくさんの子供や孫にかこまれて廬生は眠るように死ぬ。死んだと思った瞬間にふと目が覚めると、同じ茶屋である。しかも廬生が不思議な枕で眠る前に炊き始めていた粥がまだ炊きあがっていない。およそ半世紀にわたる波瀾万丈の人生が、実は粥の炊ける間の夢でしかなかった。この故事が「一炊の夢」とも呼ばれるゆえんである。
このように、夢オチの古典にしても、現実時間と創造された時間(ここでは廬生自身が創造した)との対比として夢がつかわれている。あくまでも時間そのものを意識させるためにオチとして夢があるのであって、物語のプロットを断ち切るために因果関係を無視して夢で終わらせたのではないということに注目したい。ここがムカつかない夢オチかどうかの分界点である。

15人の監督がひとり10分の作品を提供するという企画のオムニバス映画『10ミニッツ・オールダー』のなかで、ベルナルド・ベルトリッチが監督した、インドの故事を元にした『水の寓話』も同じく時間そのものを主題とする。
作業夫である主人公は川沿いを歩いているとき、大きな樹の根元に倒れ込んだ老人をみつける。かけよってみると老人は水をくれという。主人公は水を探して町へ行き、そこで美しい娘と出会い恋に落ちる。二人は結婚し、子供をもうける。しかし妻はその次の妊娠で破水してしまう。徐々に仕事も多くなり、多少は豊かになった夫婦は車を買う。はじめて買ったフィアットパンダに浮かれてスピードを出しすぎた主人公は、車ごと小川に突っ込み新しい車を大破させてしまう。呆然と歩く主人公は、かつて日雇い作業夫として通った道に出る。そして、かつて水をせがんだ老人が倒れ込んでいた大きな樹の根元にいくと、老人はまだそこにおり、主人公の差し出す水をおいしそうに飲むのであった。
厳密には夢オチではないが、時間というものを意識させるために、老人の永遠性と、男の半生という一見長いようで実ははかない一瞬を対比させている。老人にとっての一瞬は、男にとっては永遠のように長い人生であり、永遠のような人生とは、実は一杯の水のようにはかない一瞬間であるのだ。
さらにベルトリッチはそこに、形のさだまらないつねに流動する水というイメージを重ねている。川沿いの道、コップを持つ娘、妻の破水、大破したフィアットが横たわる小川、老人に差し出す水。流れていく時間と、それをとめることも固定化させることもできない水が重なることで、人が生きる時間の豊かさと冷酷さを無理なく、しかも10分という映画としては短すぎる時間で過不足なく表現している。
同じ『10ミニッツオールダー』のなかで傑作だったのは、『みつばちのささやき』で静謐なサスペンスを利用して映画館のない田舎町とそこの住まう子供を詩情豊かに描きだしたビクトル・エリセの『ライフライン』である。が、ビクトル・エリセに関しては長くなるので別の機会に書こう。

つまり、夢オチというものは、長い短いにかかわらず時間という概念を意識させ表現するための技法であり、物語の終わり方としてストーリーに組み込むべきプロットではないのだ。
アリストテレスは『詩編』でデウスエクスマキナを評して「それまでの物語に因果関係のない終了方法はするべきでない」と言っている。デウスエクスマキナとは主にオペラで多く見られる技法で、混乱した物語の筋が最終的に神(デウス)の登場によって一挙に解決されるオチのつけかたである。おおかたのオペラが機械(マキナ)によるつり下げ式や背景画の「どんでんがえし」などで神役の役者を登場させたとこからこう呼ぶようになった。大阪の人なら吉本新喜劇でミスターオクレがワイヤーにつられて登場するあの場面を想像していただくといい。あれは本来、神としての登場方法であったものをパロディー化したものである。
デウスエクスマキナがあれば、どんなに収拾のつかないプロットで筋や意味を混乱させても、最後に登場する全能の神が勧善懲悪するため物語は大団円を迎えることができる。終わり方として問題があるわけではないが、「インディジョーンズ」シリーズの『レイダース失われたアーク』などもややデウスエクスマキナにちかい終了方法である。
デウスエクスマキナも夢オチも使い方を間違えると創作の放棄となりえる諸刃の剣である。アリストテレスの言うようにそこに因果関係がそなわっていなければ、卑怯で怠惰な終了方法とみなされかねないのである。夢オチには気をつけたほうがいいだろう。

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