インドの畸形たち タブッキ『インド夜想曲』

はじめてインドに行ったとき、ご多分にもれず「インドショック」のようなものを感じた。残飯をあさる野良犬ならぬ野良牛、しつこい物乞いや物売り、たぶん12、3才ぐらいの力車ひき、子供の乞食、不衛生な食堂、好奇心をまったく抑えない男たち、ウソばかりつくタクシー運転手、賄賂をねだる公務員、平気で5時間遅刻する電車、ガンジスをながれる死体・・・どれもこれも日本の標準的な価値観や常識では対処できないことばかりであった。
しかしインドも2度目以降ともなると、それらの「インド常識」も予測範囲内となり、旅行者もその対処方法が見えてくる。つまりは慣れるのだ。
しかしどうしても慣れないものもある。なんどインドに旅行しても慣れなかったのは、腕が3本あったり、口の横まで裂けた眼窩をもっていたり、象のような足をした、いわゆる奇形の人間たちである。それが白昼堂々と人通りの多い街角で物乞いをしている。物乞いをしているからには、自分の奇形の身体を商売道具としているわけだ。それがわかっていても、つい目を背けてみなかったことにしてしまおうと、無意識に反応してしまう。直視する勇気がどうしても出ないのである。直視することもできないものにたいして、だから感想や意見が出せるわけがない。「ヤバかった」とか「気の毒に・・・」とかさえ出てこない。ひたすらチラ見した記憶を封印しようとする心理が、なぜか働いてしまう。
人間は極度のショックを受けるとその記憶を消そうという無意識が働く、という話を聞いたことがある。それでいうなら、あの奇形の物乞いたちにたいする封印の努力は、ショックによる心の乱れを食い止める作用であるとも言える。つまりは、それぐらい彼らを見るのは辛いのである。

アントニオ・タブッキの中編『インド夜想曲』の主人公は、失踪した友人を捜すためにインドにやってきた。しかしこのミステリー調のプロットが描きだすのは、そもそも主人公は誰を捜しているのか、その友人とは実在した人物なのか、彼はほんとうに人捜しをしているのか、という逆説的な疑問である。読みすすむうちに、この不眠症的な旅行自体が存在しなかったのではないか、すべては主人公の夢想なのではないかという気になってくる。
探しているのは自分自身であった、という凡百のオチをさけるため、タブッキは後半に奇形の人間をもってくる。その額に触れるだけでその人間のカルマを見通せるというアーハント(占い師)である。主人公ははじめその男を、連れている弟が飼っている小型の猿だと思う。しかしバスの待合所の光を通して見ると、それは「畸形の猛威に破壊しつくされ」た顔をもつ「おそろしい形をもつ生きもの」であった。
「正面からみる勇気のない」ほどの形をした占い師は、主人公の額に触れ「あなたの本体はここにはない」と占う。
それはこの無個性な主人公が、探している人物と捜されている人物とをつなぐ仮の姿であるからだ。直視することの難しいものとして、タブッキはここでふたつのものを描写している。畸形の占い師と、占いの内容そのものである。
われわれは、直視できないものをいろいろと抱えたまま生きている。そんなもの存在しないと思い込んでさえいる。インドに行くとは、そのうちのいくつかに真正面から出会ってしまうということでもある。タブッキの『インド夜想曲』は、そのような経験の物語としても読めるのである。

25日、アントニオ・タブッキがリスボンで死去したそうである。フェルナンド・ペソアとおなじ墓地に埋葬されるそうである。

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