文化が、特にインディオの文明が丸ごと破壊されるビブリオコーストについて。 ガレアーノ「火の記憶」 バルガス=リョサ「緑の家」 ラス・カサス、ベルナルディーノ・デ・サアグンなど。


焚書というテーマはすごくおもしろい。おもしろいと言うと不謹慎だが、それでも不謹慎から生まれるロマンがある。秦の始皇帝の焚書坑儒からはじまり、十字軍によるエルサレムの焚書、異端審問による焚書、最近ではナチスの焚書、スターリン独裁下の焚書、毛沢東の文化大革命による焚書。それらの知識と記憶の抹殺によりこの地上から永遠に消えてしまった書物には、いったいどんなものがあったのだろうか。われわれが歴史的価値のあるものだと思って手にしているこれらの本は、われわれが失ってしまった本よりもすぐれていると誰が証明できるのだろうか。失われてしまった本には、われわれの知らないどんなことが書かれていたのだろうか。
エーコとカリエールの対談『もうすぐ絶滅するという紙の書物について』の中には、この焚書やビブリオコースト(ホロコーストの書物版)についての強力で具体的な示唆が山のように語られている。エウリピデス、ソフォクレス、アイスキュロスというギリシャ3大悲劇は古典を勉強したものなら誰でも知っている作家だが、アリストテレスは悲劇を論じた『詩学』のなかで多くの代表的な作家を論じながら、われわれの知る3大悲劇作家については名前さえふれていないのである。われわれが失ってしまったギリシャ悲劇は、『メデイア』や『オイディプス王』や『オレステイア』よりも歴史的な価値として低かったと誰が判断できるのか。エーコがなんどもこの対談のなかで言うように、「文化とは、つまり選別をおこなうもの」なのだろう。なんらかのきっかけや理由で「選別」されなかった、ただそれだけのことなのかもしれない。
なんらかの理由で時間がわれわれ人類の記憶から消してしまった古代ギリシャの詩も、アレキサンドリアにあったという大図書館が焼失した事件も、悲劇といえば悲劇ではある。しかし人間が、意識的に、しかも天災ではありえないほど暴力的で広範囲な文化破壊をおこなったビブリオコーストと比べれば、笑ってゆるせる出来事かもしれない。そのもっとも巨大で凶悪な文化破壊がスペイン人によるインディオ虐殺である。
アステカやマヤの文明は、スペイン人による人間の虐殺とともに永遠に滅びてしまった。だからわれわれは、アステカやマヤについて遺跡の記憶しか持っていない。たった500年前の高度な文明について語るものを、完全に失ってしまったのだ。それはまるで墓石だけがのこる先祖のようなものである。父からも母からも祖父がどんな人だったのかをまったく知らされずに育ってしまった子孫の悲劇である。
インディオ文明について残っているものといえば、ほんの数冊のコーデックスとベルナルディーノ・デ・サアグンなどの宣教師たちが書き残した書籍や草稿が残っているだけである。そんな極端に少ない資料から、われわれは過去の偉大な文明について想像してみるしかないのである。
以下、失われたインディオの文明を想像するための、強力な糧となるであろう書籍をあつめてみた。



『インディアスの破壊についての簡素な報告』ラス・カサス

ラス・カサスは16世紀のドミニコ会修道士である。宣教師として派遣された南米で、日々インディオが虐殺される様をみて、スペイン国王カルロス5世にその惨状を伝えようと報告書を書いた。その報告書が本書である。「簡素な」とついているように、非常に簡素に書かれているが、それでも当時のインディオがどのような搾取を受け、どのように恐ろしい拷問で大量に虐殺されていたかは充分すぎるほどわかる。ラス・カサスは「新世界」での唯一のヒューマニストであった、という意見もある。
しかし、彼が考えたインディオ救済策には欠点があった。アンティリアスの金鉱やガテマラの造船所で日々大量に虐殺されていくインディオのかわりに、アフリカの黒人を使おうというのだ。16世紀のキリスト教宣教師たちの、ヒューマニズムの限界がここにあった。「神の子」の範疇を、ラス・カサスは人類全体にまで広げることはできなかった。ボルヘスは『悪党列伝』のなかの「ラザラス・モレル」の章で、ラス・カサスのこのインディオ救済策を「ねじくれた奇妙な博愛精神」と呼んでいる。
その後、ラス・カサスの嘆願は徐々に聞き入れられ、南北アメリカは生まれたばかりの資本主義とこの教会が認知してしまった奴隷制度により、飛躍的に発展するようになるのであった。



『緑の家』 マリオ・バルガス=リョサ

時代は下ってもはやインディオは虐殺ではなく追いやられ、差別され、忘却された、安定した立場にたたされはじめたころの物語である。砂の降る町にある娼家「緑の家」と、アマゾンの奥地との話が同時進行で語られる。ペルーの密林を言語に変えたように混沌として饒舌で猥雑で不気味なものがたりだが、白人入植者とインディオのどちらの視点からも読むことができる。
「読むことができる」と書いたが、しかしこの小説、普通では読むことは出来ない。同じ名前の登場人物が二人存在していたり、会話文と描写文との通常はカギ括弧で区別される境界が故意に破られていたりと前衛的な手法が山盛りで、正直すらすら読めるとは思えない。なかでも時制に関してはそうとうな罠がしくまれている。ひとつの段落のなかでさえ話が一挙に数十年前にさかのぼる。さかのぼったことを誰も指摘してくれない。だから読者は先ほど死んだはずの男がなぜまた酒を飲みながら話しているのかわからなくなる。それが誰かの記憶なのか、話している内容なのか、語り手の描写なのかもわからない。そのうえピウラとサンタ・マリーア・デ・ニエバのふたつの町の話がおなじセンテンスのなかで同時に語られていて、片方の町は現代、もういっぽうの町の話は数年前というような混乱した事態が平然と進行していく。文庫で700ページの大著であるが、この時制の混乱した仕組みを理解できたころには、物語はもう終わり近くになってしまっている。あとにはムッとするアマゾンの森林の湿度と、すべての登場人物があらゆる悪事に手を染める娼家の、猥雑で多様な人の出入りが持つ「悪の臭い」だけが印象として読者の記憶にのこることになる。
物語にするとは、混沌としたそれ自体では無意味なできごとをまとめて秩序立てることである。しかし『緑の家』は混沌が混沌のまま言語化されている。いや、いったんは秩序立った物語に仕立て上げたあと、作者により再度分解され、シャッフルされ、はじめの熱帯雨林のような混沌へ差し戻されているのだ。それは技法上だけのことではない。人の行動原理も、南米のアマゾンの生態系も、ましてインディオの虐殺といった不条理な過去を背負うペルーの歴史も、みんなもとは混沌であったし、この混沌を想像によって再現するためには、言語がもつ通常のセオリーでは不可能であったのであろう。と考えると理解しやすくなる。



『火の記憶 1・2』 E ガレアーノ

歴史観や文化対立において一方に資料がないということは、裁判において証拠も証人もないということと同じである。しかも訴える側の告訴人はとうの昔に死に絶えている。生き残った勝者だけが一方的に発言し、多くの証拠を提出し、過去の判例を持ち出し、つぎつぎと勝訴していく。「歴史は勝者の歴史である」というが、敗者の側に一切の証拠となるような文明も、まして一冊の書物でさえ残っていない場合、われわれはいったいどのようにして公平な判断ができるのだろうか。公平な判断が可能であったとして、だれが敗者の代弁をするのだろうか。
ガレアーノの画期的な著書『火の記憶』は、不可能だと思われていたその公平な判断をするための代弁を成し遂げた、数少ない成功例だと思う。それはまるでラテンアメリカという死者を、断片的な記憶をかき集める霊媒術師のような手法で生き返らせようとしているように感じられる。
ただし手法そのものは文献渉猟というオーソドックスなものである。出典は第1巻だけで227冊の文献を数え、第2巻では361冊という歴史学術書かおまけの出典数である。心理描写や意識的な暗喩を一切使用せず、簡素な文体でできた平均12行程度の短い章が1冊に300以上ならぶ。各章には、そのできごとのおこった場所と年度と参考文献名が書かれている。
これは歴史書ではないだろう。かといって小説でもない。しかしこの本を読み終わると、ガレアーノが言うように「蔑まされた最愛の地ラテンアメリカの、かどかわされた記憶を救い出す」ことに成功していると認めざるを得ない。歴史が、歴史書に書かれたものの数十倍も多くその向こうに忘れられた記憶を宿していると気づくのだ。




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