電子書籍と古本屋の思い出 『もうすぐ絶滅するという紙の書物について』

むかし古本屋でアルバイトをしていたときに、三島由紀夫の「仮面の告白」の初版を仕入れたことがあった。帯がなく、紅茶か珈琲かわからないが黒っぽいシミが表紙についていたが、生まれて初めて見る「仮面の告白」の初版、というよりも自分が扱った古書のなかでたぶんもっとも稀覯な書籍にそうとう興奮したのを憶えている。店長と相談し、出し値はたしか2万5千円ぐらいをつけたと思う。それでもあっというまに売れてしまった。
ウンベルト・エーコとジャン・クロード・カリエールの対談「もうすぐ絶滅するという紙の書物について」を読んでいて、その中でけっこうなページ数を割いて稀覯本自慢が載っていて、そのことを思い出した。彼らの言う稀覯本の1000万分の1にも及ばない稀覯本自慢だが、ふと「仮面の告白」の現在の価格を調べて見ると、な、な、なんと70万円しているではないか! (小宮山書店:1月7日時点で45万円に値下げしたようです)
物理的に存在することのない電子書籍では、この驚愕と喜びに対応する価値はあるのだろうか。禁じ手にも近く、まだ議論すべき段階ではないのだろうが、エーコとカリエールのこの対談が出るような時代になった以上、書籍愛好家は電子書籍に対してなんらかのスタンスを持たないと、書籍愛好道自体がゆるぎかねない時が来たのだろう。以下「もうすぐ絶滅するという紙の書物について」の書評風電子書籍論。

車輪、鋏、ハンマー、スプーン、本。
これらの共通項はなんだろうか。ウンベルト・エーコはこれらを、発明されたときにすでにそれ以上うまく作りようのない完成品だという。車輪と一緒で、本はこれ以上進化のしようのない利器だというのだ。
車輪を超える利器が今後発明される可能性はあるだろう。近未来を描くマンガでは車輪のない車が空中に浮いて走っているのをよくみかける。あのステキな車とそのテクノロジーが現実になれば車輪は自動車の世界から駆逐されるだろう。しかし、われわれが毎日座るデスクチェアの下にくっついているあのコマとよばれるちいさな車輪にも、その高度なテクノロジーが応用されるのだろうか。そもそもそのテクノロジーは、メソポタミア人が車輪を発明したように有機的な「発明」とよべるのだろうか。それはたぶん発明というよりも特許の観念に近く、ひとつの国や企業といった組織に属する「商品」としてしか現代では成立しないはずである。商品である以上、コストの問題から永遠に逃れることはできない。コストを考えれば、安価なデスクチェアにジェットエンジンだか反物質エネルギーだかのテクノロジーが使用される可能性はきわめて低い。だから、デスクチェアの下にくっついているあのちいさな車輪は車輪たることをやめはしない。

電子書籍もそれと同じ匂いがする。電子書籍は発明というよりも、ハードウェアの覇権というテーマで議論がなされていることからもそれは伺えるだろう。
他の国が電子書籍に対してどのような議論をしているのかは知らないが、少なくともこの国ではまるで3Dテレビ普及と同じレベルで議論が行われている。キンドルなのかiPadなのか、はたまた国内メーカー勢なのか、という話ばかりが取り上げられ、われわれがメディアの変化に対して思考方法と価値判断の変更を強いられるその影響にはだれも言及しようとしない。
言っておくが、ボクは電子書籍には人類の未来があると思っている。「i文庫」をはじめてインストールした日の驚愕は生涯わすれないだろう。人類の知の結集が、こうまで簡単に、しかも無料で永遠に手に入るようになったのは、知識の共有という人類の課題を一挙に10コマすすめてしまったようなものだと感じた。著者、出版社、流通、書店という永遠に強固だと思われていたマーケット構造が瓦解し始める心地よい地響きさえ感じたのだ。
だからこそ今の家電としか見れない「電子書籍ブーム」は不毛に感じてしかたがないのだ。そしてさらにその上に「紙の書籍はなくなる」という議論が被さると、もう目も当てられない。

まず断言するが、紙の書籍はなくならない。
CDが絶滅したのは、音楽を入れるメディアが発明ではなく特許の問題の上にあったからだ。レコード、カセットテープ、DAT、CD、レーザーディスク、MD、DVDと、すべてどこかの企業が所有する特許の上に成り立ったメディアであった。だから数年に一度は自分の持っている音楽メディアをすべて買い換えて新しいハードウェアに対応できるようにしなければならなかった。そのような消費者が疲弊する販売方法が絶滅しないわけがない。だから歴史的にみてCDは絶滅すべきだし、そうなったことを人類は祝うべきだ。
しかし本は非常に有機的な発明である。本が売れてもどこかの国や企業が潤うわけではない。1445年にドイツのマインツに住む男が、ある日発明した活版印刷という技術を560年以上も変えることなく使い続けてきた結果である。先に紹介したエーコの「車輪の発明と同じように、発明されたときにはもうそれ以上進化する余地のない発明」なのだ。
たしかに立場の変化はあるだろう。カメラの発明によって絵画が高尚な趣味となったように、本は高尚で高額な方向へ2世代程度の時間をかけて位置的変化をとげるだろう。
しかしカメラが普及してもなお人間が絵を描くことをやめないように、電子書籍は本から本質的ななにかを奪ったりはしないだろう。考えられるのは、参考書、辞書、ライトノベル、コミック、新書、ビジネス書あたりが紙の本である必要を見つけられずに電子化していくのだろう。知識の保存という役目を選別するとき、その必要性の少ない、あるいは短期的必要性しかないものは電子書籍でいいし、そうしたほうが利便性が高い。
それでも、音楽メディアが踏んだ轍のように、iPadの時代が過ぎてキンドルやリーダーへハードウェアの覇権がかわるごとに、今までストックしてきた電子書籍自体を買い換えないと読めなくなってしまうような馬鹿げた事態が繰り返されるようであれば、電子書籍はまたあらたなまったく別のメディアやサービスにとってかわるだろうし、その寿命は紙の本の560年に遠く及ばないだろう。ちなみに言うが、ほんの10年程度前にボクがせっせと書いたデータを入れたSCSI接続のZipドライブは、どうがんばってももう永遠に読めないし人に渡すすべももうない。フロッピーディスクでさえそうだろう。
そもそも、本というメディアが消滅するより早く、インターネットが消滅することはないと誰が保証できるのか。エーコもこの「もうすぐ絶滅するという紙の書物について」のなかで同じようなことを述べているのであった。


・・・たぶん、つづく。

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