あなたはGoogleの顧客ではない、ノードである。


「自分の欲望を広告屋に教えてもらう」と言い出したのはたしかジョン・ガルブレイスだった。商品購入の欲望さえも、われわれは産業側に与えられ、コントロールされているという意味なのだが、ポスト・フォーディズムを評したこの箴言でさえ、自己アイデンティティそのものが産業構造の重要な因子として浸食され書き換えられている現在から思うと、すでに懐かしき昭和の思い出みたいになりつつある。
例えば、『Googlization』などの著書のあるヴァージニア大学の歴史学・メディア学教授のシバ・ベイドヒャナサンは、Googleにとってユーザーは「顧客ではなく、製品である」と書いている。もはや顧客という地位さえわれわれには与えられず、売り買いされる製品扱いということだろうが、実のところGoogleにとって本当の製品は「アドワーズ(検索広告)」や「GDN(ディスプレイ広告)」などの広告媒体であって、われわれはそれらを成立させるPV(ページビュー/閲覧数)をせっせと捻出して企業の広告費をGoogleに流し込む、まるで漏斗のような「部品」あるいは「無償の労働者」であると言ったほうが適切かもしれない。
くしくもおなじような、というか剽窃したわけではないだろうが、まったくおなじ表現で、デジタル関係を専門とする米国の作家ダグラス・ラシュコフは、「あなたはFacebookの顧客ではない、製品なのだ」と言う。(若林恵『さよなら未来』「本当の「働く」が始まる」)



ちなみにFacebook社はいまでこそ「われわれはメディアだ」という、むしろちょっと奥ゆかしくもあるほどの陳腐さでこの特異なサービスを表現しているが、以前は自他共に「プラットフォーマー」という散文的呼び名に甘んじていた。プラットフォームなのだから、そこはそもそもコンテンツとよばれるものが存在していないところである。コンテンツは、それこそ毎日せっせと朝から晩まで、われわれユーザーが汗水たらして作っている。それをおなじわれわれが閲覧してPVをかせぐ。インプットもアウトプットもおなじユーザーが担当しているさまは、牛丼屋のカウンターの中と外が同一人物であるような、めまいを感じるタイプのアンビバレンスである。
だがこれがFacebookだけの特性であればまだよかった。世界一の広告媒体かつ広告代理店であるGoogleは、GDNの数百万におよぶパートナー・サイトや、Youtube、ブロガー(このサイトもBloggerだ)、Gmail、GoogleMapなど、ことなるメディアを横断するかたちでこのアンビバレントな二重の「無償労働」をわれわれに強いているのだ。

無償労働のかわりに、われわれは素人の作ったくだらない動画や実況やまとめやレーティングをみて楽しむ。作った分だけ閲覧する権利が手に入るのかというと実はそうでもなくて、例えばGoogleで検索したりYoutubeで動画を閲覧するサービスの代償は別のところで支払いが発生している。ここではプライバシーこそがその代価となるのだ。
Googleという巨大なバイナリーシステムは、フィジカルな社会との接点をもとめている。われわれは、フィジカルな社会の情報をGoogleに提供する、いわば「ノード」の役目をはたす。そして、フィジカルな社会の情報を提供する方法は、「わたし」の個人情報のかたちをとらなければ、ユーザーという個人からデジタル界へ吸い上げることはできない。Googleという巨大なインターネットの支配者は、目も見えず耳も聞こえないので、われわれがフォームに検索語句を入れることで、あるいは動画を視聴することで、フィジカルな人間社会での出来事を知るのだ。
これを端的に示す実例が、2000年からはじまったGoogleBooksだった。人類の叡智をデジタル化し容易にアクセスできるようにすることは広く公益に資するというGoogle側の説明に、世界中の図書館や出版社が賛同したものの、ところが蓋をあけてみると読みこまれた書籍のデータはGoogleのAI開発に利用されていたという、まるで近未来ディストピアSFかなにかのような、むしろちょっと笑ってしまうほどタイピカルな事件であり、2018年5月25日に執行された欧州のプライバシー保護規定のGDPRもこの事件が契機だったという識者も多い。(週刊ダイアモンド2018年6/2号「個人情報規制 GDPRの脅威」)



デジタル世界のいわゆる「ビッグデータ」へせっせと情報注入にいそしむ「ネットユーザー」様の無償労働は、生まれてしまったテクノロジーに乳を与えることで自分自身をも作り直していく作業に従事しているということだろう。
これと似たようなことを、雑誌「WIRED」の創刊編集長であるケビン・ケリーは、「われわれがオオカミからできた犬を飼い慣らし、牛やトウモロコシや、その他の祖先がわからない多くのものを家畜化したり栽培したりしたのと同じように、われわれ自身もわれわれによって飼い慣らされてきた。そして歯が(外部の胃袋である料理によって)小さくなり、筋肉は落ち、体毛も消えていったが、それはテクノロジーがわれわれを飼い慣らしたのだ。つまり道具を作り直したとたん、それがわれわれ自身をも作り直していた。」と、ちょっと大きすぎるきらいがないでもないスケール感で表現する。(ケビン・ケリー『テクニウム』)
もっと言ってもいいなら、あるいはGoogleにとってわれわれの人生は、掘り尽くそうと画策する油田である。

プライバシーは民主制社会における核(さね)の部分である。「わたし」がなにものであるかは、自己決定においてなさなければならない。GDPRを執行した欧州議会、欧州理事会および欧州委員会の根拠となっているのも、欧州人権条約であり、その複数におよぶ条項に対してプライバシー保護は重要な遵守事項である。

ジェームス・ポンソルト監督、エマ・ワトソン主演で日本でも公開された『ザ・サークル』でも、ソーシャルネットワーク企業のプライバシー侵害が問題になっている。
そこでは、行き過ぎたプライバシー公開とすべてがつながることへの懸念が、鑑賞者のいわゆる「Facebook疲れ」のようなものを共感のエンジンとしてストーリーが展開する。しかし、SF的世界観の希薄さ、プロットのゆがみ、ストーリーに惹きつける魅力、人物造形、なにが言いたいのかいまいち判然としない結論と、映画としてあまりほめられたレベルではないことだし、もう言わなくてもいいだろう、この映画のことは。「全部つながるの怖い」「監視ヤバイ」たぶんそういうことではないのだ。

原題が「Reclaiming Conversation」なのでちょっとばかしダサ目の邦題が付けられた書籍『一緒にいてもスマホ』など、テクノロジー系にも造詣が深い、臨床心理学者で精神分析医のシェリー・タークル(しらなかったのだがタークル氏はかのシーモア・パパートと以前夫婦だったそうで今さらおどろいている)は、インターネット上の子どもの個人情報を保護する米国のCOPPA法と、対象年齢を13歳以下にも引き下げようとするFacebookにかんして「Facebookは幼い子どもたちには重すぎる」と指摘している。「永続化した公知の評判」をかたちづくりかつその評判に耐えなければならないという、いわば今でもまだ曖昧なままの「忘れられる権利」を子どもが行使するという考えが現実的ではない、とそういうことだろう。
それにかんして情報倫理学の大谷卓史は「COPPAは、親の同意がない13歳未満の利用を禁止しているが、たぶんこれは正しいことのように思われる。自己の成長とアイデンティティ形成を阻害するインターネット上の対応には(…)消去権や忘れられる権利等の対応が必要となるだろう」と述べている。(大谷卓史『情報倫理』)

COPPAが施行されたのは2000年で、もう今から18年も前のことである。この間、イラク戦争があり、ISの躍進があり、トランプ大統領があり、POST TRUTHやブリグジットや、日本では原発事故があり、テクノロジーではスマートフォンとIoTが普及し、ビッグデータ解析とディープラーニングがトレンドとなり、デジタル通信量はすでに月間132エクサバイトと言われている(総務省「第1部 特集 IoT・ビッグデータ・AI~ネットワークとデータが創造する新たな価値~」)など、まるで別世界である。
すでにまもるものが13歳以下の子どもだけでは、とうてい無理になってきているのだ。子どもの「アイデンティティ形成を阻害するインターネット」は、大人のアイデンティティ形成をも阻害し、書き換えはじめているのだ。欲望が作り出される社会を順等に越えて、今はプライバシーを引き渡してなお、自己のアイデンティティの書き換えを許す社会が到来しているのだろう。

フィジカルな社会の情報をノードとしてGoogleに入力する無償労働をさせられた結果、プライバシーを不当に安価にバーターし、アイデンティティを書き換えられた結果あるものはネトウヨとなり、あるものは陰謀論者となり、あるものは匿名の攻撃者になる。それが60兆とも言われるインターネット広告費を生みだし、世界で第3位の時価総額を誇る(2018年度)企業をささえる、デジタル錬金術である。Googleと今のインターネットをみていると、ガルブレイスの刮目が昭和のノスタルジーに見える、と言ったのはそういうことである。
(敬称略)


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