プルースト『失われた時を求めて』進捗ご報告01


もうかれこれ20年も前に途中放棄してしまったプルーストの『失われた時を求めて』を、岩波の吉川一義の新訳を機会に読み返すことにして、そろそろ1ヶ月。
誰も読まないのを承知でも、どこか多少ともパブリックな場所に進捗を記すことで、前回の轍を踏まないようにしたいと思い進捗をここにご報告しておくことに。
「前回の鐵」は、井上究一郎訳の筑摩版で第三巻の50%程度だったと記憶している。岩波で言うと第6巻「ゲルマントのほうⅡ」にあたる。
岩波版で5、6、7巻と3冊にわたる「ゲルマント」は、その内容と長さから途中離脱する者が多く、通称「ゲルマントの壁」と言われているそうだ。まさしくボクの「鐵」もゲルマントであった。

前回の読書時には不明だったプルーストの改行のタイミングが、第3巻「スワン夫人について」を読むうちに理解できるようになった。通常、物語や出来事の切り替わりにおくべき改行が、それらをまったく無視して、心理の切り替わりにおかれているのだ。
この発見に喜び勇んで訳者あとがきを読むと、まんまそのことが吉川一義によって書かれていた。まるで剽窃したようだし、そもそもそのことは多くの評論家も言っていることだし、ボクの独自性を証明するものはなにもないのだが、それでも改行の謎が解けたよろこびは言っておきたい。

現在3巻までを難なく読了し、4巻は丸善の包装紙に包まれてスタンバイされている状態である。
前回の読書体験と今回のものがどうちがうかが、2回目の読書の、しかも前回途中離脱した5巻までのあいだにしかできない自己実験の楽しみである。
特に記憶が鮮明な「スワンの恋」は様相が一変していた。学生のころは、すさまじい嫉妬と恋の駆け引きが、まるで地獄絵図のように書かれているという印象だった。
だが今読むと違った。恋というものがすべて一人の人間の精神の動き(あるいは心理)であって、むしろ恋の相手さえそこには必要のないことなのだという、プルーストの徹底した恋愛観の視線が浮かび上がってくるのだった。

自分の愛情がはね返ってきたものをわれわれは相手の感情と呼び、自分の中から出て行ったとき以上に魅了されているにすぎない。
Ⅲ395

実のところ「ゲルマントの壁」以上に途中で読むのをやめてしまう箇所は、この「スワンの恋」直後ではないかと思っている。
源氏物語も、第1帖「桐壺」の美しい導入だけ読んでやめてしまういわゆる「桐壺源氏」とよばれる離脱者たちがいる。筑摩版では「コンブレー」と第2部「スワンの恋」、第3部「土地の名-名」までの第1編「スワン家のほうへ」が第1巻の1冊であった。俗に言う1巻落ちである。
たいして「ゲルマントの壁」は、全巻構成上の位置からしても、源氏物語でいうところの第12帖「須磨」にあたると思われる。こちらも「須磨源氏」と諧謔的によばれているところも似ている。

『失われた時を求めて』にかんしてなにかを書いたり批評することは、事実上もう不可能であると思っている。プルーストを批評する隙間はもうどこにも残されていない。
例えば小説中に出てくる食事だけを取り上げた批評でさえ、もう何十冊も出版されている。プルーストと植物、プルーストの演劇、プルーストの馬車、プルーストと第一次世界大戦。これらはすでに先人がすばらしい書籍として出版しているのだ。
だがしかし、『失われた時を求めて』を規範として利用することはできる。つまり、プルーストは古典なのである。ホメーロスやタレスといった古典の利用方法が無限であるように、プルーストも無限である。

以下、『失われた時を求めて』第3巻「花咲く乙女たちのかげにⅠ」でたのしかったセンテンスを書いておく。プルーストの毒舌冷徹ウィットが伝わればいいな。(ローマ数字は岩波版の巻数、英数字はページ数)


「ご婦人は着帽のままでは一階席にお入りになれません、扉は二時に締め切られます」 Ⅲ51

「オリダの店に行って、ハムを買ってきておくれ。奥さまが私に念を押されていたようにネヴヨークのやつよ。」
Ⅲ52

それは火星から届いた信号のように感動的だった。
Ⅲ57

「たとえばビーフ・ストロガノフと格闘なさるのを拝見できればと存じます。」
Ⅲ80 

「あれはもう子供じゃない、好みはもはや変わらないだろう」と言った父のことばで、突然、私は自分が「時間」のなかにいることに気づき、悲しみを感じた。私は、耄碌して養老院に入居したわけではないが、本の最後で作者からとりわけ冷酷さの際立つ無関心な口調で「男はますます田舎を離れなくなり、とうとうそこに住み着いてしまった」などと書かれる人物になったような悲哀を感じたのである。
Ⅲ130

フランソワーズは私に、あのウサギは見たことがないほど穏やかにして速やかに往生したと請け合った、「あんな動物は、一度も、一匹も見たことがありゃしません。ただのひとことも言わないで死にました。まるで口がきけないみたいに。」
Ⅲ132

かりにドレフュス事件のかわりにドイツとの戦争が勃発していたら、万華鏡は別の方向に回ったに違いない。
Ⅲ202

「おかしいわね、息子の方が父親より上なんて」
Ⅲ206

恋心の消滅とともに、愛していないと誇示する気持も消滅したのである。そして、オデットに苦しめられた当時はいつかほかの女に首ったけなのを見せつけてやろうとあれほど願っていたスワンが、いまやこの新たな恋を妻に勘づかれないようたえず最新の注意を払うようになっていた。
Ⅲ218

おそらく最初の時に欠けているのは、理解でなく、記憶なのだ。
Ⅲ226

ヴァントゥイユのソナタのなかでもっとも早く発見される美は、もっとも早く飽きられる美でもある。
Ⅲ228

天才の作品がただちに賞賛されることが少ないのは、書いた人が非凡で、似たような人がほとんど存在しないからである。
Ⅲ229

人のいう後世とは、作品の後世である。
Ⅲ229

そんなわけで芸術家は、みずからの作品にしかるべき道をたどらせようと願うならーーヴァントゥイユがそうしたようにーーそれを底知れぬところへ、はるかに遠い未来のただなかへ投げ出さなければならない。
Ⅲ230

「あたしね、その人とはけっして知り合いになりたくないの。理由はひとつ、自分のお父さまにやさしくしなかったから。」
Ⅲ244

「それはね、かわいそうに人が善すぎるからよ。」 
Ⅲ245

具体的とはもっと慣れたものという意味なのだ。
Ⅲ276

しかしながら天才とは、いや傑出した才能でさえ、ほかの人より優れた知的要素や社会的洗練から出てくるというより、むしろそれらを変形して移し替える能力から生まれる。 Ⅲ280

過度の感受性による悪徳もあれば感受性の欠如による悪徳もある。
Ⅲ288

力強い考えというのは、その力を反論する相手にもいくぶん伝えるものだ。
Ⅲ300

かくしてスワン夫人のわきに出現したのは夫人の新種であり、紫のリラのそばに白いリラが生えてきたような案配である。
Ⅲ306

父親と母親から引きついだふたつの気質が、ジルベルトのうちに混じりあっていただけではなく、ひとりのジルベルトを奪いあっていたのである。
Ⅲ307


「他言されたくないのなら、どうしておっしゃいますの?」これは社交的でない人、要するに「つむじまがり」の人の返答である。私はそうでなかったから、黙ってお辞儀をした。
Ⅲ320

自分の知る言語では、われわれはわけのわからない不透明な音もはっきりした明瞭な考えに置き換える。ところが知らない言語になると閉ざされた宮殿も同然である。中では愛する女がわれわれを裏切っているかもしれないのに外にとどまるほかなく、あまりの無力に絶望して身をよじるばかりで、なにも見ることはできないし、なにひとつ妨げることはできない。
Ⅲ341

とうとう私は何時間も前から期待していた事態の好転がジルベルトの側からは生じないのを悟り、きみはやさしくないね、と言った。
Ⅲ344

わかってるのよ、あなたがあたしに夢中なのは。でもそんなこと、あたしには痛くも痒くもないの。だって、あなたのこと、ばかにしているんですもの。
Ⅲ344

現実を耐えられるものとするには、人は少々愚かなことを考えざるをえないものである。
Ⅲ357

「これは日本の花でございましょう。でしたら日本人と同じように活けてあげなくては。」
Ⅲ381

「いまの流行が大きな帽子だというのは承知しております。それにしても、あれはいささかやりすぎじゃないでしょうか?」
Ⅲ385

自分の愛情がはね返ってきたものをわれわれは相手の感情と呼び、自分の中から出て行ったとき以上に魅了されているにすぎない。
Ⅲ395

「くれぐれも本人に言わないでください。そんなことを知ったら、きっと違うようにしますから」
Ⅲ413


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