スターリニズムを生き延びた作家たち 『尋問』『アルバート街の子供たち』『収容所群島』『人生と運命』

たぶん1940年代後半のポーランド。場末のキャバレーで歌う歌手のアントニーナは、夫とのささいなケンカがもとで夜半外出し、見知らぬ2人組の男たちに誘われるままバーに行き泥酔してしまう。
翌朝、目が覚めると留置所のようなところである。昨夜の2人組は秘密警察の男で、アントニーナは身に覚えのない尋問を受けることになる。なんの罪名によって、どのような自白を強要しているかもわからぬまま、執拗な尋問は何日にも及ぶ。
そのうち、アントニーナにも彼らがなにを欲しがっているのかがおぼろげに見えてくる。彼女がかつて一度だけ寝たことのあるゆきずりの男オルツカが、国家反逆罪に値するという供述がほしいのである。嘘の供述を拒否するアントニーナは、秘密警察によって執拗な尋問や拷問、精神を痛めつける死の恐怖を味わわされることになる。
その後、秘密警察の少佐タデウスの子を身ごもったアントニーナは、彼からオルツカがすでに銃殺されていること、夫の離婚申請が受理されたことを聞く。それでも、彼女への尋問は終わらないのである。
はじまりと同じような唐突さで、5年目にしてようやく彼女は自由の身となる。彼女が釈放される直前、収容所の刑務官や兵士があわてている様子が描写される。この無意味な尋問と5年もの長きにわたる監禁状態を終わらせたのは、ソヴィエト・東欧にとっての歴史的大事件であった。劇中、ひとりの男がさけぶ。
「スターリンが死んだ!」

リシャルト・ブガイスキ監督、エクゼクティブプロデューサーにアンジェイ・ワイダを迎えたこの『尋問』という映画をみたとき、アントニーナのあまりにも不条理な運命に「もしかして原作はカフカ?」とさえ思ったものであった。それほどアントニーナのおかれた状況は「カフカ的」であり、スターリン体制下の閉塞状況は想像を絶するものであったのだとわかるのである。

レーニンの死後、彼の遺言を力ずくで反故にしたスターリンはみずから党代表となり、じっさいの後継者と目されていたトロツキーを国外追放(のちに暗殺)し、反対勢力のキリーロフを殺害したころから一挙に独裁恐怖政治を布くようになった。それは彼の死の1953年までつづくのである。
スターリンが死去することで開放されたのは『尋問』のアントニーナだけではない。もしスターリンがもう少し長生きしていたら、かの悪名高い「医師団事件」によりロシア中のユダヤ人はシベリアの強制収容所、あるいはナチスと同じ絶滅収容所に強制移住させられていただろう。
スターリンの恐怖統治時代を書いたアナトーリー・ルィバコフの『アルバート街の子供たち』は、後継者フルシチョフによるスターリン批判からはじまった「雪解け」により、200万部を売る大ベストセラーとなった。ユダヤ人であるルィバコフはスターリニズムによりシベリアに流刑され、この小説も執筆後20年間は発禁であったという。
また、ルィバコフはナチスに占領されたウクライナのユダヤ人家族の悲劇を書いた『重い砂』も出版している。

友への私信にうっかりスターリン批判を書いてしまったがために、アレクサンドル・ソルジェニーツィンは8年もの長きにわたってシベリアに流刑されてしまう。彼が釈放され自由の身となったのはやはり1953年であった。
それまでの8年間になめつくした辛酸とこの不条理きわまりない恐怖の国家体制を、ソルジェニーツィンは6巻にわたる大著『収容所群島』に書いた。もしこの原稿がみつかればまちがいなく死刑となるであろう状況で、彼は原稿を複数の場所に隠して執筆をつづけたという。ノーベル文学賞受賞によって、国外世論をおそれたソヴィエトはソルジェニーツィンを国外追放し、彼は1994年まで祖国にもどることはなかった。
しかしソルジェニーツィンのこの著書は、事実上ソヴィエト崩壊を早め、あの不条理で残酷な恐怖の国家を転覆させたとも言えるのである。シベリア流刑前はロストフのごく平凡な数学教員だった男が、ラーゲリ(ソヴィエト強制収容所)によって逆に国家と拮抗するちからをもったのだ。恐怖政治は、自身の恐怖心によってその死を早めるのである。

2012年1月からみすず書房より刊行されたワシーリー・グロスマン『人生と運命』が先ごろ完結した(全3巻)。
1941年、ウクライナはドイツ軍に占領され、グロスマンの母エカテリーナはナチスのユダヤ人強制収容所に収監され殺害されてしまう。このテーマは『人生と運命』第18章からはじまるアンナ・セミョーノヴナが息子に宛てた手紙の章において知ることができる。また記者でもあったグロスマンの書いた従軍記『トレブリンカの地獄』は、ナチス降伏後にソヴィエト軍とともにポーランドに入城した彼が目撃した、ナチスによるユダヤ人殲滅という「地獄」の報告である。
ところが祖国であるはずのソヴィエトにも、ナチスとおなじ反ユダヤ主義の嵐がふきあれることになる。上述した「医師団事件」により、国内のユダヤ人がシベリアに強制移住させらるというのである。細かな不信はあったにせよ、それまでグロスマンはユダヤ差別を表面上は撤廃したソヴィエト連邦を支持はしていたようだ。だがスターリンの粛正がユダヤ人にむくことで、グロスマンはソヴィエト社会主義体制の欺瞞とその大罪を知ることになる。『人生と運命』はそうした状況で書かれた小説である。
だから、1961年、秘密警察によりグロスマンは家宅捜査を受け、『人生と運命』の原稿は没収され、当局によって「今後少なくとも200年間は出版できないだろう」と宣告されるのである。

だから、いまわれわれが何げなく書店で手にしているこの本は、数々の奇跡によって実現した書物なのだ。もしあと1年スターリンが長生きしていたとしたら、もしスターリンの「医師団事件」が数年はやくおこっていたら、もしソヴィエトがもうすこしまともな国家でその崩壊がおそかったら、きっとわれわれはこの書物を読めなかっただろう。どの本もそうだといえばそうなのだが、多くの血の上に書かれ、国家による殲滅を生き延びた書物だと思うと、無性にいとおしいのである。『戦争と平和』や『源氏物語』よりも長い(みすず書房)からと敬遠していたのを、ボクのように酔った勢いで購入するような本ではない。著者とその歴史的背景に失礼である。まだ第1巻の30%程度しか読んでいないが、酔った勢いの責任はとろうと思うのであった。

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