ダブル・シャンデリア期の思考と知覚 『複製技術時代の芸術』『声の文化と文字の文化』

写真が芸術なのかどうか、19世紀にはさかんに議論された。いま読むと当時の論争はおそろしく的外れで不毛な議論のようにかんじられる。今日的で一般的な意見としては、写真が芸術であるかどうかなんて議論する必要もないほど「写真は芸術」であるといった解釈が圧倒的だろう。
フランツ・ヴェルフェル(1890~1945)は写真や映画といった具体的描写を得意とする芸術にたいして、「(写真や映画が)芸術の王国へ大きく飛翔することの障害となっていたのは、まちがいなく、街路、室内装飾、駅、レストラン、自動車、海水浴場といった外界を不毛にコピーすることである」と断言しているという。(ウォルター・ベンヤミン『複製技術時代の芸術』)
「映画は 真の意味、本当の可能性をまだとらえていない・・・その可能性は、自然な手段によって、そして比類のない説得力で、妖精的なもの、不思議なもの、超自然的なものを表現するという唯一無二の能力のうちにある」
われわれがおもう以上に、写真の発明からその作品が芸術であると認識されるまでの時間的道のりは長いようである。具体的な描写を得意とするがゆえに、写真や映画は「具体的すぎる」といって非難されていたのである。

19世紀におこなわれた写真芸術論争は不毛で的外れではあったが、その議論が活発であったことは、逆に議論するテーマがより深刻で甚大な影響をあたえるできごとであったという証明にもなる。芸術という分野で「世界史的大転換」がおこっていた可能性が史実として浮かび上がってくるのである。

19世紀末期にジョセフ・スワンが白熱電球を発明し、裕福な家庭に電線がひかれたとき、人々はダイニングにふたつのシャンデリアを飾った。従来のガスで灯るシャンデリアと、まだ不安定で一定時間しか送電されない電気をつかったシャンデリアのふたつである。この二重のインフラ時代を「ダブル・シャンデリア期」とよぶ。(マイケル・オンダーチェ『映画もまた編集である』)
蒸気機関が発明されたのち、船からセールとマストが完全に外されたのはそれから数十年ものちのことであるのと、状況はよくにている。
現代でいうなら電子書籍と紙の書籍、あるいは配達される新聞紙を購読しながらインターネットのニュースサイトもチェックするといった二重の冗長さがダブル・シャンデリア期に相当するだろう。テレビのデジタル化や印画紙とデジカメなどの二重性もふくめて、巨視的に言うならアナログメディアとデジタルメディアのダブル・シャンデリア期にわれわれは生きているといっていいだろう。ゆっくりであるがゆえに気づきにくいが、メディアというジャンルでいま「世界史的大転換」がおこっている。
19世紀の写真芸術論争が不毛なように、現在のアナログ=デジタル論争も100年後の人間がみれば滑稽で混沌とした印象になるにちがいない。その時にはアナログ=デジタルの二元論にはもうはっきりとした決着がついているからだ。

ラムス研究で有名な古典学者のW・J・オングは無文字文化と文字文化とのちがいが脳の形成に影響をあたえているという仮説を、1930年代に中央アジアにフィールドワークしたルリアの研究とハヴロックの口誦文学にたいする研究『プラトン序説』をもとに立証する。(『声の文化と文字の文化』)
ルリアは文字をもたない文化圏の人間にたいして、ハンマー、ノコギリ、手斧、丸太をみせて分類させる。ところが無文字文化の人間はハンマー、ノコギリ、手斧が道具で、丸太が素材だということがわからない。彼にとってはどれも生活に必要なものであり、そのカテゴリーや順位は彼の生活にとっての重要度でしか分類できない。
彼は分類というわれわれが日常的におこなう概念が理解できなかったのであるが、それは文字文化、つまり文字として言葉を認識する文化圏でしか通用しない概念でもあったのだ。無文字文化圏の男は「カテゴリー」という概念がわからず、文字文化圏のわれわれはカテゴリーに毒されて物の重要度がわからない。どちらがすぐれているとかいうのではなく、文字をもつと思考や知覚の方法自体が変質するということである。
もともと口誦文学であった『平家物語』を文字で読むと、そのあまりの反復の多さと単純すぎるプロットに辟易してしまう。「それはもうわかったからつぎにいってくれ」と言いたくなる。耳で聞く物語と、目で読む物語の違いが『平家物語』には如実にあらわれている。
たとえばミステリーなどは、あきらかに黙読を前提とした現代の文学である。ミステリーどころか口誦文学では時制の変更も、話者の切り替えも、複雑な会話文も実現できないだろう。こいった技法上の発達は、文字と黙読を大前提として進化してきたのである。
グーテンベルグが世界最初の活版印刷機によって聖書を印刷した1455年から、近代文学の先駆けといわれる『ドン・キホーテ』が出版された1605年まで、ちょうど150年かかっている。それまでが、文学という狭い世界での長いダブル・シャンデリア期といっていいだろう。はじめから文字での表現を前提としながらも、文字と黙読でしか実現できない技法をこれといって持つことなくその両方を視野に文学が生産された150年である。

文字文化特有の技法を生産できなかったのは、作者がバカだったからではない。識字率の問題でもあるのと同等以上に、人々の脳における知覚と思考の枠組みがいまだに無文字文化のものだったからだ。
蒸気機関の信頼性が不十分だったのは最初の20年程度で、その後も船にマストがつけられたのは利用者の思考がどうしても船とマストを切り離せなかったという人為的理由であるのと似て、文学も、文学という本質が伝達の媒体にたいして変質する時間が150年必要だったということである。
ウォルター・ベンヤミンは「広大な歴史の時間の内部で、人間集団の総体的な存在様式が変化するのにともなって、人間の知覚のあり方も変化してゆく」と書いている。「人間の知覚がどのように組織化されるかーーすなわち、人間の知覚が生じる場である媒質(メディウム)ーーは、自然の条件だけでなく、歴史的条件にも制約されるのである」。

写真芸術論争をおこなっていた19世紀の議論が不毛であるとかんじられるもうひとつの理由に、かれらのどちらの陣営もが、この論争が実はもっと巨大な歴史的転換をあつかっていると気づいていないというものがある。写真が芸術か否かという即時的な判断に議論をついやし、もうひとつの可能性を看破できなかったという不毛である。それは写真というまったく新しい表現が、芸術というジャンルや、表現という行為・作品を見て評価するわれわれの知覚と思考に重大な変質を及ぼすという可能性である。写真が芸術になっていくのではない。われわれの脳が写真という新しい表現・カテゴリー・技術によって変質するのである。
あたらしい芸術が誕生するとき、それはかならず芸術という分野そのものに影響をあたえる。しかしそれは芸術や表現だけにとどまらないのである。あるカテゴリが発生したとき、その上位の大カテゴリはかならず影響をうけて変質する。文字によって知覚と思考に変質があり、もはや文字のない思考方法が文字文化圏のわれわれには思い出せないように、写真のなかったころの芸術評価とおなじ思考はもはやできない。
実際、われわれは写真と映画の発明以上の歴史的転換期の、まさにダブル・シャンデリア期をいきている。このブログでなんども言っているが、電子書籍か紙の本かとか、デジタルかアナログかといった外形上の分類と価値判断はあまり意味のないことである。問題は新しくうまれたカテゴリがどれぐらい巨大であるかを知ることである。それがわかればメディア全体の影響と方向を予測できるかもしれない。そしてもっとも重要なのは、われわれの脳のはたらきがどのような変質をとげるかということなのである。


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