西と東の宗教観 『ツリー・オブ・ライフ』『ブンミおじさんの森』


ヨブは信心深く真面目によく働き東国一の富豪であったが、ある日を境に突如不幸なできごとに見舞われるようになる。まず、シェバ人による家畜の強奪と使用人の殺戮である。つづけてメソポタミアの盗賊が何千とあったラクダを盗み彼の富は崩壊する。つぎにハリケーンに7人の息子と3人の娘すべてを奪われ、あげくの果てにはヨブ自身が重い皮膚病を煩うことになる。尋常でない痛みと痒みに灰の中でのたうちまわりながらも「神を呪って死ぬほうがましだ」という妻に「わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか」と彼はいい、神の仕打ちを受け入れるのであった。
心配し見舞いに訪れた友人たちは、ヨブのあまりの受難と苦しみをみていぶかる。彼はわれわれのしらないところで神に対する重大な罪をおかしていたのではないか。「だれか罪もないのに滅びたものがあろうか」と。友人たちはヨブに罪の告白をせまる。友人たちによる過酷な詰問と懺悔の強制により、とうとうヨブは神に疑義をもち問いかける。「わたしの知りえない罪があるのならば、その罪によってわたしは裁きの場に立つことを望んでいるのに、あなたはそれさえもかなえてくれない」。そしてさいごにヨブは神に対する重大な不信を口にするのである。
「どうしてあなたはなにもこたえてくれないのですか」

旧約聖書中もっとも「エキサイティング」といわれる『ヨブ記』のあらすじはこのようなものである。物語としても読んでおもしろく、受難者ヨブ、義の人ヨブ、反逆者ヨブとあらゆる解釈を許す懐の深さもある。なにより神の沈黙、絶望のなかでの信仰、そして自分で認識しえない自分自身の罪をいったいだれが告訴し、だれが裁くのかという西洋社会の根本的ジレンマがここにはあるのだ。
寡作で知られるテレンス・マリック監督のカンヌ・パルムドール受賞作『ツリー・オブ・ライフ』もこのヨブ記を基本のモチーフにしている。ヨブの問いかけに対する神の答えが、作品冒頭しめされる。
わたしが地の基を定めたとき、あなたはどこにいたのか。
あなたに悟ることができるなら、告げてみよ。
そのとき、夜明けの星はこぞって喜び歌い、神の子らは皆、喜びの声をあげた。


何億年もはるか昔、天地創造のころ人間はいなかった。もちろんヨブもいなかった。そんな永遠の時間のなかのほんの一瞬を生きる人間が、全知の者にその沈黙を非難できるというのか。絶望的な神のこの答えをいかに解釈するのかを、哲学者でもあるテレンス・マリックは壮大な天地創造のSFXと1950年代にいきる平凡な家族の描写によってこの映画で示そうとしている、とボクは考えた。
そもそもヨブのこの苦悩と絶望は、彼の祖先であるアダムが知恵の木の実を食べてしまったことに由来する。そしてエデンにはもう一本の禁断の木があった。それが生命の木、ツリー・オブ・ライフである。知恵の木の実を食べてしまったアダムがさらには生命の木の実まで食べてしまうと、もはや人間は神と同等のちからを持つことになってしまう。そのことを恐れた神は彼らを楽園から追放し、人は永遠にこの地上をさまようことになる。
この映画の主人公ジャック・オブライエンの逍遥と葛藤もそのことに由来しているような気がする。誇張しすぎなほどの幾何学的でモダンな超高層ビルのオフィスに勤務する彼は、ガラス張りのエレベーターに乗って過去を振り返る。自宅で妻と待ち合わせて着替える様子やガラスの棺に入れられた母のイメージから推察するに、きっとジャックの優しかった母が死んだのだろう。オフィスで知らせを受けとった彼は、これから母の葬儀に向かうのかもしれない。その間におもい出す、厳しかった父と母とその間で揺れ動く少年時代のジャックの記憶がこの映画の主要なプロットラインである。そこにヨブ記で神が答える「地の基を定め」る天地創造と生命の進化のイメージがサブラインとして挿入される。


「神の沈黙」というテーマだけであれば、歴史的傑作であるイングマール・ベルイマンの「沈黙三部作」がある。このテーマにおいてこの映画を超えるのは至難の技だろう。だからかどうか知らないが、マリック監督は「ツリー・オブ・ライフ」にもうひとつの意味を持たせた。天地創造からヨブの受難を超えてジャックまでつづく生命の進化、つまり進化系統樹や家系図としての「木」である。しかしこちらにも『2001年宇宙の旅』というモンスターのような作品が控えている。事実『ツリー・オブ・ライフ』の天地創造のシーンや唐突に恐竜の登場するシーケンスはキューブリックのそれを彷彿とさせるのである。なかでもジャックが空き缶を蹴飛ばすシーンは、キューブリックの猿をおもい出させてしかたがなかった。
このようにして、過去の巨大な遺産に左右をはさまれつつ『ツリー・オブ・ライフ』の物語ははじまる。


ジャックの逍遥と葛藤はつねにふたつの対立軸を明確にさせる。それは作品の冒頭数分で母が語る言葉に要約されている。
「人はふたつの生き方のどちらかを選ばなくてはならない。世俗に生きるか、すべてを神にゆだねるか」
単純にみれば、成功するには強くなければならないと子どもらに教える厳格で強権的な父と、空中に浮いてしまうほど朗らかで優しい母の受動的な生き方という対立軸だろう。
父は1950年代のアメリカらしく、社会的な成功のみを価値判断の基準としており、勤め人としての出世だけでは飽きたらずいくつもの特許を申請してみたり大きなビジネスのために当時では珍しい飛行機にのって海外に出かけたりする。しかしそのどれもが失敗に終わる。父のなかでは、「強さ」というものがほとんど盲目的にビジネスと結びついており、強さとは他を圧倒するちからであると考えていることからも、彼が象徴するのは1950年代の経済と投資への熱狂とアメリカの経済至上主義、ひいてはいまも世界を席巻するアメリカの新自由主義経済であると考える。そしてさらには、アダム・スミスを源流とする自由主義経済理論の思想的バックグラウンドであったチャールズ・ダーウィンの進化論と、その「適者生存」の思想そのものが、父のかんがえる「強さ」の根本にあるといっていいだろう。
そう考えると母の優しさ、軽さ、弱さは旧約聖書の創世記であることになる。動と静、強さと弱さ、厳しさと優しさ、ダーウィニズムと創世記、新自由主義経済と家族としての幸せ、そういったものがつねにジャックの左右に対立しており、彼はその対立軸のなかで子どもながらに苦悩して成長していくのである。
しかしジャックは父以上に社会的に成功する。弟に対する暴力が示すように、ジャックはあれほど嫌っていた父の要素を色こく受け継いでいるのだ。母の優しさと弱さを、音楽を愛し19才で死んでしまう弟がみごとに引き継いでいるように。
そんな無数の対立軸の間を埋めるのがSFXによる宇宙の誕生、マリック監督のかんがえる天地創造の物語なのだろう。
そこでは科学の証明の通り、ビッグバンがおこり、燃えさかる火の玉が球体となって惑星がうまれ、ご丁寧にユカタン半島に隕石が衝突する場面まで描写される。だがしかし、つねに神の存在は意識させられるようになっている。光として、神が宇宙を照らさなければどうして生命がうまれたのか、と。その後描かれるスーパープルーム、マグマ、フレア、海の青い光、透き通るクラゲ、ステンドグラスと、神はつねに光のイメージをもっている。
ここでボクはヨブ記をおもい出すのだ。この壮大な光景をみるはずもなかったオブライエンの人々が、善悪の明確な基準も神へ語りかける術もないまま、まるでヨブのように日々の受難を退けようといきている。どうすればよいのかはわからないが、われわれの生きている一瞬はこのようなものなのだ、ということなのだろう。また逆に、人間に与えられた一瞬も、生命の長い歴史と進化系統樹の末端のできごとであり、もっとミクロでみるならば、それは父と母のことなる生命から生まれる「生命の木」の豊かな果実であるともいえるだろう。


テレンス・マリック監督が『ツリー・オブ・ライフ』で描こうとした現代のヨブと天地創造の長い物語のおおよそは、このようなものであったのだろうと考える。
しかし、断言してもいいがこの映画は失敗作である。キャスティングやかんちがいさせる予告編やプロモーションなどの外縁的なことは問わないとしても、オブライエン家の物語と天地創造の堪え難い乖離、キレイだがまるでたたみかけてくるようなイメージの冗長さ、ため込んだ複数のテーマがどれも重すぎておこった消化不良など、細かいことをいい出せばキリがない。しかしもっとも問題なのは、この映画が「われわれは東洋人だからキリスト教のことはわからない」とおおくの観客にそうおもわせる、その難解にしかならないまさにその理由において失敗しているとおもうのである。
事実、われわれ東洋人のおおくはヨブ記がわからない。わからないが、そのおなじヨブ記を元にしたゲーテの『ファウスト』はわかるのである。楽しみ、咀嚼し、自らの文化としてとりこんでさえいる。それはちょうど『マクベス』を知らない者でも黒澤明の『蜘蛛の巣城』をたのしめるのといっしょである。
しかしこの映画には、あえてわれわれの侵入を拒むような「難解」という言葉でできた高い壁があるような気がしてしかたがないのである。





宗教観というか、神の捉え方を基軸として、非常に多くの点でこの『ツリー・オブ・ライフ』と好対照をなす映画を最近みた。タイ作品としてはじめてカンヌパルムドールを受賞したアピチャートポン・ウィーラセータクン監督の『ブンミおじさんの森』である。


タイの東北部の村で農園を営むブンミおじさんは肝臓病のために人工透析をうけており、自分の死期がちかいことをかんじている。そこへ死んだ妻フエイの妹とトンが見舞いにやってくる。3人が夕食をともにしていると、突如として19年も前に死んだはずのフエイが幽霊となってもどってくる。さらに、10年以上前に森の中で行方不明になった息子ブンソンが「猿の精霊」の姿で帰ってくる。ブンソンはいう。
「お父さんの病気をかんじてみなが集まっている」
「みなって誰だ?」
「精霊や、飢えた獣だ」
翌日ブンミは妹のジェンをつれて農園を案内し、自分の死後この農園をついでくれという。夜、ブンミは「死んだあと、どうしたらおまえにあえるのか」といい、幽霊のフエイを抱きしめる。
いよいよ死期のちかづいたブンミは、幽霊のフエイ、ジェン、トンとともに森の奥深くにある洞窟の中へとはいっていく。フエイがブンミの腹膜透析の栓を抜くと、ブンミは静かに息をひきとる。淡々とおこなわれる葬儀のあと、寺のなかでトンは不思議な物音を聞く。その後も、不思議なできごとはつづくのだった・・・。


どちらも難解で眠気を催すという他に、この物語のなにが『ツリー・オブ・ライフ』と好対照かというと、まず人間の生死を超えた神のような存在の描き方が真逆なのである。
先述したように、『ツリー・オブ・ライフ』ではつねに神は光として表現されている。暗い宇宙に光るエネルギーとしての神である。ところが『ブンミおじさんの森』では、それはつねに闇なのである。昼なお暗いうっそうとした森の暗闇にこそ、人智をこえた存在がひそんでいる。死んだ妻フエイも、行方不明の息子ブンソンも夜あらわれるし、ものごとが動き出すのは常に夜であり、暗い森である。
つぎに、もっとも両者の対比が顕著にあらわれるのが自然観である。どちらの映画も人間と自然との関係を重要視しているが、そのとらえ方が正反対なのである。『ブンミおじさんの森』では自然と神と精霊と幽霊とはほとんど同一のものである。それらが生息するのが森である。だからブンミは死期がちかいと悟ると、森の奥の洞窟へと移動するし、彼がおそれるのは死ぬことそのものよりも、死んだあとに妻の霊とまためぐり会えるかどうかということなのである。ブンミは農園の相続に不安をかんじるジェンにこういう。「幽霊になってすぐにもどってきてやるから」。なかんずく象徴的なのは、こんな田舎の農園に似つかわしくない人工透析という治療法を持ちだしているところである。人工透析によってウィーラセータクン監督が表現しようとしたのは、ブンミはチューブという人工的なものによって人工的にこの世につなぎとめられているというメタファーである。もしこの近代的な医療技術がなければブンミはもっと早くに肝臓病で死んでいただろう。ほんらい死んでいるはずの人間だから、彼のもとには疎遠となったいろいろなものが集まってくるのである。ジェンとトンも、そのなかの「この世の側」の人々であるにすぎない。テラスでの幻想的な晩餐のシーンは、生と死のはざまの宴であり、そこは人工と森とのあいまいな境界なのである。
ひるがえって『ツリー・オブ・ライフ』が描く自然は徹底的に神の付属物であり、人間とともに神が創造した多くの物のひとつにすぎない。タイトルにとられた「生命の木」も、これ自体に意志があったり目的があるわけではない。あくまでも神の創造した道具の一種のようなあつかいである。ビッグバンもスーパープルームもマグマも海も恐竜も木々もステンドグラスも、みな神の創造したものであり、そういった創造物のなかで、知恵の実を食べた人間だけが神の語りかけをまっているのである。作品中、傷ついてたおれた小さいな恐竜に肉食のおおきな恐竜がちかづくシーンがある。誰もが捕食されるとおもうなか、おおきな恐竜は小さい方の頭を足で踏みつけながらもなにもせずに離れていく。その正確な意味はわからないが、われわれ観客は肉食恐竜の動きに人間の姿をみるのである。見るというよりも、そもそもこの肉食恐竜は人間の行動をトレースしているのである。動物は弱肉強食だけでいきているのではないという人間の価値観を反映したとき、彼らは人間にとって意味のあるものとなるのである。ブンミの息子が人間をすてて猿の精霊になるのと正反対である。ブンミやジェンはそれでもおそれることなく彼を食卓に招き入れ、彼の話を聞き、「まぶしすぎる」という彼の言葉にしたがって電灯を消してやり、自分たちが闇の方に入っていくのである。
それは生命のとらえ方にも通じる。ヨブが、オブライエンが、ジャックが、命は神からあたえられたものだとかんじる一方、ブンミの森の世界では、命はあくまでも自然とのつながりなのだとかんじられる。

このあたりが『ツリー・オブ・ライフ』の失敗の原因ではなかったかと思うのである。これはあくまでも私見にすぎないのだが、テレンス・マリック監督は、神と天地創造の物語とをあまりにもつきつめて考えたせいで、信仰の薄い人間やクリスチャンでない人間を拒絶するような作品を作ってしまったのではないだろうか。さまざまな価値観や立場や思想といった対立軸を描きながら、マリック監督はヨブのような「義」を観客にもとめてしまったのではなかったか。
もしそうなのだとすれば、この映画はあるいみ「キリスト教原理主義」の美しい宣伝になる危険性さえもっているのではないだろうか。もしそうならば、であるが。


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