「おにぎり一つ、うれしくてありがたい」 アーレント『全体主義の起源』


被災すれば着の身着のまま、持ち出すものもままならず、近所の小学校などの体育館に避難し、プライバシーもない空間で予定もたたぬまま不遇を耐えるしかないという、このところ「よく見る」ようになってしまった例の被災者たちなのだが、いつのまにあれが当たり前の被災者像になったのか、2011年の春頃からずっと不思議だった。

1995年に神戸に大きな地震があったとき、東灘高校や灘中学などの学校体育館で目にした館内の風景も、たしかに今と一緒でプライバシーもなく、立つことも座り続けることもままならないため雑然と人が横たわり、狭く、窮屈で、寒く、情報もほとんど手に入らずたいそう不安だったのをよく覚えている。
だから逆をいえば23年前から、被災者の地位というか、扱われ方というか、つまりは行政側の「扱い方」はまったく一向によくなっていないということだ。

テレビがなければ被害の規模さえわからないわれわれは、被害を見ることで同時に「被災者像」というスティグマも無批判に受け入れている。
倒壊した家屋、土砂崩れの起きた道路、泥水のあふれる河川といった「絵」が映されたあとには、狭い体育館に押し込められた被災者の、多くは田舎の人間の「絵」がほしいところだろうし、テレビの前で待つ者も、それがあってはじめて災害がおきたことを実感し、同時に「これはかわいそうだ」と感情が動き出す。
仮に六本木が被災地で、周辺のホテルが避難場所に指定されたとして、リッツカールトンのクラブミレニアスイートに寝起きする被災者の「絵」なんか映すものだろうか。かりに放送したとして、そうでない場合と比較して同情心や、あるいはある程度それを数字に置き換えることが可能な義援金は、おなじだけ集めることができるだろうか。

なにもテレビだけがスティグマの発生に責任があるというわけではなくて、災害というインシデントの理解には、「物語消費」といったような、強力な、おそらくは液状の消化促進剤がなくてはならないのかもしれない。
なぜ液状かというと、与えられた災害情報にはあらかじめ消化促進剤が練り込まれた状態で、もはや咀嚼の必要さえなく、われわれののど元に放り込まれる必要があるからである。

実際にリッツカールトンのクラブミレニアスイートに避難している被災者は、自腹でそうしているまれな人以外はたぶんほとんどいないのであるから、メディアが提示する「被災者像」は、これはこれでスティグマを強化しているという点で問題ではあるのだけれど、よりぞっとするのは、被災者は≪ほんとうに≫、あの体育館の不衛生で狭苦しいプライバシーもない空間に押し込められて、「被災者像」を越えない範囲でないとその不満さえ口に出すことができないという事実である。

この不思議だった被災者像と体育館の関係について、弁護士である大前治は国際赤十字が定めた災害や紛争時の避難所についての最低基準「スフィア基準」が日本では守れていないという指摘とともに、スフィア・プロジェクトの冒頭に掲げられた「人道憲章」を掲載するのであった。(大前治「自然災害大国の避難が「体育館生活」であることへの大きな違和感」現代ビジネス 7月10日 https://goo.gl/Fpr43M

  • *災害や紛争の避難者には尊厳ある生活を営む権利があり、援助を受ける権利がある。
  • *避難者への支援については、第一にその国の国家に役割と責任がある。

概念論的にいうならば、われわれは被災したとたんに「かわいそうな田舎の被災者」というスティグマが捺され、国家によって保証されていたはずのプライバシー権や「尊厳ある生活を営む権利」といった天賦だったはずの人権がおびただしく減少する。家財や土地や、あるいは家族まで失った瞬間に、被災者は人権の一部をも失うのだ。

言ってしまえばこれは、フランス革命以降の国民国家がその憲章のよりどころとした天賦人権説を、わが政府がたいして信じておらず、人権は「国家がアポステリオリに付与するもの」とやはり心のどこかで考えていることの証左のように思えてならない。
国家が被災中の状況で、いったいどうして国民のQOL(クオリティ・オブ・ライフ)など気にしていられようか。だって国家だってリソースには限界があり時間も金もないのだから、と考えているし、じっさいそのように振る舞い、被災者もそのような状況を知って耐えている。時間も金もない国家的状況かどうかが天賦人権に先立つ心配事であるとするならば、やっぱりどうしてもそれを自然権だとは思えないのであるし、23年前からなにひとつかわっていないところを見てどうやら本気で変える気はないのだろうという結論になったってしかたがないのではないか。

他の一切の法律は人権から導きだされ人権にもとづくとされたからには、人権をまもるための特別な法律が作られるとすれば、それは逆説的な事態である。
ハンナ・アーレント『全体主義の起源3』

だが、残念ながらその逆説的事態をわれわれは生きている。
JAが実施した「「ごはん・お米とわたし」作文・図画コンクール」の平成28年度絵画部門の内閣総理大臣賞を受賞した絵画は、被災した少女が自衛隊とおぼしき迷彩服姿の男性たちから、大きなおにぎりを受け取って思わず涙ぐむ場面を描いたものである。タイトルは、「おにぎり一つ、うれしくてありがたい」。
この上手で劇的でさえある絵画が、表彰されたなまなましい賞の名前と組み合わさるとき、この絵にかかれた少女は「被災して人権が半減されたのにおにぎりがもらえるのはありがたいことです」と言っているようにしか見えなくなってくるのである。きっとこれは被災者の鏡であると褒められたという意味があるのだろうし、そのようにくみ取る以外にまともな解釈をよせつけぬコンビネーションが、この受賞という出来事にはある。

先日来の大雨とその被害を心配しつつも、こころはあらぬ方にとんでいってしまったのであった。
(敬称略)



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