「戦争になったら逃げる」なんて無理 『夜』エリ・ヴィーゼル


むかし、ルーマニアのユダヤ人の村シゲトにあるシナゴーグに、ひとりの知恵遅れの堂守がいた。名をモシェと言い、いつもシナゴーグ入口の階段に座り、村のユダヤ人らに愛されていた。
ユダヤ人作家エリ・ヴィーゼルがまだ10代の少年だった70年以上前、ルーマニアにもナチスドイツは侵攻した。
しかし、ブカレストから遠く離れたシゲト村の人たちはそのことを楽観していた。ここは関係ないよ。こんな田舎まで来たりはしないよ、と。
その後のある日、ナチスの軍服を着た兵隊たちが村にやってきて、シゲトにいる浮浪者や知恵遅れの人たちをトラックに乗せて連れて行ってしまった。堂守のモシェもそのなかに含まれていた。うわさでは、彼らはナチスドイツの医療機関で治療を受けた後、特別な施設で暮らすことになるのだという。多少の不安はあったが、それでも村人はそのうわさを信じた。
堂守のモシェと仲のよかった少年は、ときおりモシェのことを考えて暮らしていたが、そのうち村中の人たちは、連れて行かれた彼らのことを忘れてしまった。
そうして何ヶ月かしたある日のこと、少年がシナゴーグに立ち寄ると、いつもの階段にあの堂守のモシェが座っているのを見た。驚いた少年が事情を聞く。
モシェは、ナチスに連れて行かれたあと、彼がその目でみた地獄の風景を語って聞かせるのであった。
「わたしゃみたんです。たまたま死んだと思われて逃げられたのです」
そうして、命の危険を顧みずにわざわざシゲトの村に戻った理由を、村の人らに語る。
「はやく逃げて下さい。おなじような目にあうまえに。私はそれだけを目的にここまで逃げてきたんです」
ところが村人らはモシェの言うことを信じない。
モシェの消沈した姿をみていた少年は、その不安から、家族みんなでイスラエルへ引越しようよと、一度は父に頼んでみる。しかし「そう簡単にはいかないのだ」といってその提案は父に拒否されてしまう。
その後、ナチスはシゲトにまで侵攻し、村のユダヤ人はひとり残らずゲットーに移されることになる。最後の晩、ユダヤ議会の役職をもっていた少年の父の元にあの堂守のモシェがやってきてこう言う。
「だから逃げろと警告したのです。どうしてあのとき私の言うことを信じてくれなかったのですか。もう遅すぎる」
そうしてシゲトの村のユダヤ人らはひとりのこらずゲットーに移され、その後、ヴィーゼル少年とその家族を含めた多くのものは、アウシュヴィッツ強制収容所へ収監されることになるのであった。
(エリ・ヴィーゼル『夜』)


先日なにかの雑誌の対談を読んでいると、日本が戦争になるかならぬかといった話題に対して一方のいわゆる「著名人」がこう言っているのを見て愕然とした。

「万が一、戦争になってもボクは逃げるから大丈夫です」

驚いたのはその発言の無責任さではなく、戦争にたいする認識の甘さである。
戦争状態はある日突然はじまるのではない。「再来週から戦争なのでご準備を」といってはじまる戦争など聞いたことがない。ましてや有価証券や不動産を処分して国外の銀行にあずけ、会社や仕事をきれいに終わらせ、あらゆる責任をまっとうし、貸方を清算し、親族や友人やあるいは恋人とわかれ、国内でしか通用しない自分の地位や名声や立場をかなぐりすてて、そのときどうなっているかわからぬビザを申請して、定期運行されているかどうか不明な飛行機で出国する余裕も、それを受け入れる他国も、またその方法も、その時にはたぶん存在しないだろう。
かりにそれが、宣戦布告のニュースや戦場の鬨の声を聞くまでそれが戦争かどうか判断できないようなモッサリした感覚の人だったりすると、「逃げるから大丈夫」というその逃亡計画はもっとずっと悲劇的で悲惨なものになるだろうし、そもそも「逃げるから大丈夫」なのはその発想が平和時のルールやモラルや憲法や、平和時の国家権力によって保障されているからだということさえ抜け落ちたままの思考であるのは、まったく悲劇的というか喜劇的でさえあった。
平和状態と戦争状態はなだらかにつながるスペクトラムである。ふたつをルビコン川や「賽は投げられた」といったロマンチックで爽快感のある寓話で切り離して考えるのは、われわれがそのふたつを瞬時に見分ける賢明さと即決力をもっているからではなく、われわれが愚鈍で優柔不断で弱い人間だからこそであるという因果関係は忘れない方がいい。
極端にいうと毎朝おきるとわれわれは問わなければならない。今日は戦争だろうか、平和だろうか、と。今日は昨日よりもすこしばかり戦争に傾いたのではないだろうか。先月の110%ほど平和的になったのではないだろうか今月は、と。
そんなことやってられるわけないのであるが、しかし平和を浸食するものは徐々にやってくるのである。戦争と平和がスペクトラムであるなら、自分の町に爆弾が降ってくるまで戦争と理解できないものだっているだろうし、逆にどこかの誰かには今日がすでに戦争状態であるかもしれない。

堂守モシェの警告を無視したシゲトの村人を見てもし「自分なら逃げられた」と笑う人がいるなら、その傲慢さこそが、戦争を戦争と認知できない愚鈍さであり、戦争にたいして優柔不断な態度しか提示できない弱さなのだと認識したほうがいいと思う。それは戦争という超巨大国家間事業を前に「ボクは逃げるから大丈夫です」と考えられてしまう現実認識の貧弱さとおなじである。
(敬称略)



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