均質の共同体は生け贄をうむ 『排除の現象学』


1980年代初頭、埼玉県比企郡鳩山村(現鳩山町)にある鳩山ニュータウンの自治会会報「コスモス鳩山」に、次のような匿名の一文が掲載された。

飼い犬に手を咬まれる、という諺がある。信頼しきっていた者に裏切られることの意味で使われる。腹を立てるのも判るが、別の見方をすると、飼い主は犬を盲愛するあまり、犬は咬みつくものだという動物の本性を忘れてしまい、自分と対等の精神の持ち主と錯覚して扱っていたことに問題がある。犬は所詮、犬でしかないことを知らねばならない。
また犬ぎらいといわれる人たちがいる、こうした人達は犬に咬まれた経験を持たなくても、犬が、どうしても嫌いなのだ。犬と聞いただけで、恐怖感や嫌悪感が先に立ってしまう。梅干しと聞いただけで唾液が出るのに似ている。生物学的に犬の理解はできても、またその存在は否定しないが、絶対に好きになれない。たしかにそういう人がいる。しかし、その人達が異常だとは思わない。会社では部下思いであり、家庭では愛妻家であり、子煩悩でもありうる。犬ぎらいな人達をして、犬好きの人が、犬好きに変革させようとしても、徒労に終わるだけ。むしろ、たとえ愛犬であっても近づけないのが思いやりである。

実はこれ、犬の話をしているのではない。その前年に、この鳩山ニュータウン近隣に建設されることになった自閉症者施設「けやきの郷」に反対する住民が、その建設の是非を問う住民投票直前に自閉症者を念頭に書いた反対表明の一文である。
自閉症者施設の建設を住民投票で決定するという異例の事態になるまでに、反対する一部地域住民のために何度か説明会が開催されている。自閉症は精神病ではないこと、自閉症者と犯罪に明確な関係はないこと、この施設がなければ自閉症者は精神病院にしか受け入れ先がないということなど。
話し合いは決裂し、あわや住民投票という事態にまで発展してしまう。だが県知事の介入により投票は直前になって回避される。
上記の文章はその直前に、鳩山ニュータウン住民にむけて書かれたものである。(赤坂憲雄『排除の現象学』)
この不気味なメタファーを含むレトリックの矛盾が表しているのは、当時の新聞が書いたような「地域エゴ」の問題だけでも、また赤坂憲雄が何度も言うように、「自閉症に対する社会的偏見」という位相だけで了解しうるものではない。
そこには、均質という中心のない集合へ集まろうとする人間の習性と、その集合からはみ出してしまった者への容赦ない攻撃の欲求があるとボクは考える。
それはまるで、子どもの遊び「おしくらまんじゅう」のようである。おしくらまんじゅうでは全員が中心のない集合に向かって突き進んで行く。中央近くにいるものは勝者であり、外縁部に押し出された者はマケ、あるいはオニである。そしてこの遊びには見事に終わりがない。中央部に向かい続けることがこの遊びの本質であり、その集合の結束が固ければ固いほど、外縁部にはみ出した者に再侵入の余地はない。
鳩山ニュータウン住民が書いた、自閉症者を「咬みつく犬」と呼び、自閉症者の親を「盲愛のあまり動物の本性を忘れ」た者だと言い、一方で自己に対しては動物呼ばわりする相手に「思いやり」をもとめるこの不気味で矛盾だらけのレイシズムは、つまることろニュータウンという均質の集合体が、いかに強固に結束されているかということになるだろう。

外縁部からそのコミュニティの外側に押し出されるのは、病気や症状、または土地といった目に見える境界の問題だけではない。
小学生に特有のいじめ問題を見ればその「排除の理由」が信じられないぐらい多岐にわたっていることに気がつくだろう。
メガネだから、太っているから、髪の毛が茶色いから、動作が散漫だから、勉強ができないから、強情だから、すぐ叫ぶから、転校生だから、○○町に住んでいるから、片親だから、病気だから、障害者だから・・・。
その理由はむしろなんでもかまわないのである。なぜなら、まずはじめに「排除への欲求」があり、そのあとに自分なりの排除の正当化として「異質探し」がおこなわれるからである。
異質さの理由がこんなにも些細であるのは、小学校という義務教育の「場(トポス)」が異常なほど均質を指向しているからだろう。赤坂の書くように、そこでは髪の毛の長さから靴下のはきかた、廊下の歩きかた、挨拶のしかた、お辞儀の角度、気をつけ時の足の開き具合、給食の食べかた等々、ありとあらゆる項目でそのコミュニティのすべての人間がおなじであることが強制させられている。
先の鳩山ニュータウンは、バブル時にオープンした「北限」の新興住宅地である。北限というのは、東京都心部へ通勤可能な場所のもっとも北に位置しているからである。この北限の場所に平均2700万円の住宅を購入する人々が、その社会的環境、収入、可処分所得、家族構成、そしてそのマインドにおいて平均的な日本よりも多様であるとはとうてい思えない。収入もおなじなら住宅ローンの支出もおなじ、家族構成も子どもたちの通う学校もおなじである。この街にフェラーリに乗っている者はいないだろうし、生活保護を申請している者もいないだろう。このおそるべき「均質の街」において、自閉症者の排斥運動がおこったのである。ちなみに古くから鳩山村に住んでいたネイティブの住民からは、地理的に建設予定地から若干離れていたというのもあったろうが、反対の意見は出なかったという。
けやきの郷建設の反対運動がおこったとき、鳩山ニュータウンの中にもその運動に嫌悪感を抱いた住民もいたはずである。だが、それを表明するのはそうとうの勇気が必要だったはずである。自分自身が異質な存在になるかもしれないという恐怖は、いじめに荷担しなければ自分がいじめられるかもしれないという小学生の恐怖とおなじ構造である。この意味で、「総意」というものは本当の意味での「総て」の「意見」をあらわしてはいないのである。だからこそ先の一文は匿名でしか成立しないのであるし、住民投票は無記名なのだ。
フランス出身の批評家ルネ・ジラールは自著『暴力と聖なるもの』にこう書いている。

文化秩序の起源には常に人間の死があり、その決定的な死は、その共同体の成員の死である。(『排除の現象学』P.214)

社会的にも経済的にも家庭環境的にもほとんどおなじ均質の共同体に、中心部という概念は存在しない。人工的に作り上げられたニュータウンの均質なマトリクスは、その個がもつ価値が相互に取り替え可能であるような価値でしかないということを、奇しくも図式的にあらわしている。
この均質の秩序を維持しなければならないのは、異質なものの進入によってその共同体に特別な意味が存在しないということ、その共同体が無価値であるということが露見してしまうことを防ぐためだ。
これは人工的なニュータウンだけの問題ではない。たまたまそこが均質さという意味において平均よりもわかりやすかっただけの話である。
われわれは秩序維持のために排除をおこなう。赤坂憲雄の言い方を借りると「秩序創成のための暴力としての供儀」である。
中心のない中央部に向かうためには、外縁部へ押し出される者が必要である。誰かが外側に脱落しなければならないのである。だが脱落だけでは意味はない。その者を攻撃することで、中心へ向かう動機はより強くなる。
われわれは、われわれの属する共同体からはみ出た者が、死ぬところを見たいのだ。その苦しんで死ぬさまが、なによりも社会の秩序形成にとって重要な結束力になりえると知っているのだ。だから、供儀とはそのような意味であり、いじめられっこは義務教育という社会秩序への生け贄であるのだ。


このところ、生活保護問題が賑やかである。不正受給はよくないし、制度に問題があるなら改変すべきである。しかし、この社会保障制度の破綻問題が破綻の原因を究明する方向には進まず、いつのまにか不正受給者も正当な受給者もひっくるめた生活保護そのものに対する排除の理論にすり替わっていることに、薄ら寒い思いをしている。
まじめに働いている者より生活保護受給者のほうが楽な人生を歩んでやがる。そういう怒りもわからないでもない。だがその憎しみが生活保護受給者という個々の社会的弱者に向くのであれば、それは実際すでに破綻している社会保障制度という共同体への供儀にしかならないだろうし、その供儀は破綻しているはずの制度をより強固にし、かえって延命させるちからとなるだろう。
われわれがしなければならないことは、破綻したり決定的な問題を抱えたりする制度を乗り越え、革新することである。排除によりその秩序を維持しようとすることではないはずである。
(敬称略)








このブログの人気の投稿

「ファミキャン」ブームがきもちわるい件について。『イントゥ・ザ・ワイルド』『地球の上に生きる』

トマス・ピンチョン『V.』とはなにか?

イデオロギーによるリンチ殺人 山本直樹『レッド』・ドストエフスキー『悪霊』・山城むつみ『ドストエフスキー』

異常な愛とナチズム 『愛の嵐』『アーレントとハイデガー』

メタ推理小説 『哲学者の密室』『虚無への供物』

インフレする暴力映画 『ファニーゲーム』

うつ病とメランコリア 『メランコリア』ラース・フォン・トリアー

イスラームへの旅 サルマン・ラシュディ『悪魔の詩』

フエンテス『アルテミオ・クルスの死』書評(年表、登場人物表)

『コード・アンノウン』ハネケ