150年前のメディアリテラシー 『火星からの侵入 パニックの社会心理学』『百代の過客 続』


1938年10月30日、アメリカのラジオ局マーキュリーシアターでH・G・ウェルズ原作オーソン・ウェルズ演出のラジオドラマ『宇宙戦争』が生放送された。
番組開始前にこのプログラムがフィクションである旨が告げられており、新聞のラジオ番組紹介欄にも「宇宙戦争」と明記してあったにもかかわらず、「ニュージャージーに火星人が飛来し住民を次々に焼き殺している」という音楽を中断した緊急放送のアナウンスに、リスナーは驚き恐怖しパニックをおこしたという。
それほどにオーソン・ウェルズの演出はみごとだった。事実、彼はこの「事件」によって一躍有名になる。
しかしおもしろいのはそこだけではない。パニックになったといってもリスナー全員が慌てふためいたわけではないのである。あくまでも「リスナーの一部」がパニックをおこしたのである。
プリンストン大学の心理学教授であったハードレイ・キャントリルは、さっそくこの事件を、ドラマの舞台となったニュージャージー住民へのインタビューによって調査する。(『火星からの侵入 パニックの社会心理学』)
それによるとリスナーのうち27%の人々が、これはドラマではなく「ニュースだと信じた」と回答し、「そのうちの70%が驚いたか不安に感じた」という。
オーソン・ウェルズという名前とほとんどセットで語られる有名なこの事件も、実は73%の人間がその演出にだまされずに最後までドラマとして「楽しんだ」のである。
おもしろいのは、この2タイプがなぜわかれたのだろうか、ということである。
デモグラフィック的な理由として、まずこのラジオドラマをどの時点で聞き出したかということがあげられる。番組冒頭のフィクション宣言を聞き逃したものがパニックに陥る確率はとうぜん高くなる。なんという番組だったのかは知らないが、裏では人気のラジオ番組が放送されていたそうである。その番組終了後にウェルズの『宇宙戦争』へダイアルをあわせた人々が多くいたそうで、その人たちはとうぜんニュース的な演出をいきなり聞かされることになる。
しかしそういったデモグラフィックパターンとはべつの系統として、番組はじめから聞いていようと途中から聞いていようと、あっさりだまされてしまった人々のサイコグラフィックパターンが存在する。手元のラジオ欄を確認することもせず、べつの局の情報で確かめるという方法も思いつかず、知人に確認したりもしないまま、それらの人々はパニックになったのである。
これを、現代ではメディアリテラシーの問題、という。
メディアリテラシーという言葉は比較的最近できたものであるが、それはこの問題に名前がついたのが最近であるだけで、メディアが存在する以上、問題そのものははるか昔からあった。



鎖国を廃した幕府が西洋へはじめて使節団を送った2年後の1862年(文久2年)、駐日イギリス大使オールコックの帰国につきそうかたちで、勘定方幕臣の淵辺徳蔵が渡欧している。
淵辺ははじめて万国博を見た日本人の中のひとりでもある。先に、横浜、神戸、新潟の開港延期を請願するために派遣されていた福沢諭吉を含む使節団とロンドンで合流し、その後、行動を共にしている。一説には幕府の開港の方針に重大な変更があり、その旨を先発隊に告げる役目をもっていたとも言われているが、じっさいはわからない。
淵辺がロシアに滞在していたときであった。懇意であった駐ロシアのオランダ大使が淵辺に対して、イギリスのある新聞記事を伝える。それによると、日本のイギリス大使館が日本人の襲撃を受け、イギリス人が何人も殺されたという。
話を聞いた淵辺は驚愕し、大いにとまどう。オランダ大使がどこまで具体的に淵辺にこの話をしたのか、オランダ大使はどこまでこの事件のことを知っていたのかはもはやわからないが、渡欧という日本人にとって前代未聞の困難で孤独な仕事をなし遂げようとしてた淵辺の驚きと不安を想像するのは容易である。しかもヨーロッパ滞在中の淵辺には、その新聞記事が本当であるか確かめる方法はなかった。
しかし淵辺はその後、もっと恐ろしい噂を耳にする。イギリス大使殺害事件に憤慨したイギリス本国の市民らが、渡欧中の日本人使節団を皆殺しにしたという噂が、まことしやかに日本国内で流布しているというのである。(ドナルド・キーン『百代の過客 続』)
当の使節団員である淵辺には、とうぜんその噂がうそであることがわかっている。淵辺はそこから推論し、最初に聞いた駐日イギリス大使殺害事件も風評であると結論するのである。
じっさい文久2年には、幕府との折衝を終えて京に帰る薩摩藩主島津久光の行列に乱入し(てしまっ)たイギリス商人らが、薩摩藩士に斬り殺される生麦事件がおこっている。しかし殺されたのは大使館員でもなく、イギリス大使館が襲撃を受けたわけでもなかった。この事件がどこかで湾曲して、大使館襲撃事件としてヨーロッパに伝わってしまったのだろう。
淵辺が慧眼であったのは、新聞記事という「権威の情報」に対して柔軟な理解力をもっていたところだろう。当時の日本人のひとりとして、あるいは新聞というシステムをそれほど理解していなかったのかもしれない。だが、もし淵辺が新聞という西洋の発明に心酔しきっていたとしたら、ことはべつの方向に動いていたかもしれないのである。150年後の今でも当時下した淵辺の判断を顧みると、彼がどこか心の奥で「そんなことになるはずはない」と強く思っていたような気がするのである。そういう気持ちがなければ、「大使」に告げられた「新聞記事」を否定さえして事実にたどり着くことは、できなかったのではないかと思うのである。メディアリテラシーとは、淵辺が抱いたこの疑いのことを言うのである。

淵辺と同じく第2回使節団で渡欧した日本人の中に、市川渡という侍がいた。使節団副使の松平石見守康直の従者として渡欧したそうである。
市川は身分の低い侍として、高官では書かなかったような詳細な記述の日記を書きのこしている。西洋文明へのあこがれ半分、反発半分といった当時の日本人の代表的な葛藤が彼の日記には記されているのだ。
ヨーロッパからの帰路、市川らがセイロンで宿泊したときのことである。ホテルの支配人がその日の新聞を持ってきて市川らに見せてくれた。そこには、日本の使節団がセイロンに到着したという記事が大々的に書かれている。
市川は、昨日おこったことがすでに今日紙面となって手元に配達されていることにおおいに驚く。だがその後、彼はこう書きのこしている。

固ト是利ヲ専ラトスル者ノ作ル所ニシテ巷談閭説タル多クハ浮薄ノ言ニシテ採ルニ足ラザレ共其迅速ナルハ又驚クベシ。

これは、新聞というものをあまり知らなかった日本人の戯言かもしれない。しかし、市川や淵辺がはじめて目にしたときから150年、われわれはメディアというものに対してなにか実際的な「接し方」を学んだだろうか。むしろ市川や淵辺が持ちえていた柔軟さを失っただけではないのだろうか。
批判癖のある幕末の侍が一目で見抜いた「利ヲ専ラトスル者ノ作ル所」というメディアの大前提さえ、われわれはすっかり忘れてしまっている。
それどころか、現代において新聞紙やテレビニュースの記事を見て、その事件そのものを否定する発想を、だれが持てるだろうか。われわれは、ニュースが「罪人」であるように報道する、公判さえはじまっていない人物に怒りをおぼえ、「鬼畜米英」と書く新聞を読んで殺意さえもったではないか。事実であるかどうかという認識どころか、われわれは「権威の情報」に対してなら、その感情さえあっさり明け渡してしまうのだ。

この件だけでみると、われわれのメディアリテラシーは向上どころか150年前からむしろ後退していると言わざるを得ない。だから、オーソン・ウェルズの『宇宙戦争』に恐怖した当時のラジオリスナーのことさえ、われわれは笑えないのかもしれないのだ。
(敬称略)




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