ルソー、グーグル、ジェダイ 『スターウォーズ』『一般意志2.0』『社会契約論』
ジョージ・ルーカスのSF映画『スターウォーズエピソード2』のなかで、のちの銀河帝国皇帝であるパルパティーン議長に帝国主義的思想の影響をうけつつあったアナキン・スカイウォーカーは、恋人パドメとの甘いデートの最中、権力と力による統治の夢をかたる。それを聞いたナブー星議員でもあるパドメは驚愕して叫ぶ「本気なのアナキン?」。このくだりはパドメがアナキンの発言を冗談だとかってにミスリードして決着するが、恋人の発言が多少独裁主義的だからといって、目を見開き眉間にシワをよせて恋人の失言を責めるほどのことであるのだろうか、という疑問がのこる。
ボクはなにもSF映画の娯楽ファンタジー作品に、重箱の隅をつつくようなリアリズムのツッコミいれたいのではない。スターウォーズというSF大作が根底に据えている、人々の(なかにはエイリアンの)揺るぎない大義への矛盾が、はからずもわれわれ21世紀にいきる現代人の抱える矛盾の巧妙な鏡像のようにみえるからである。いわくそれは、どちらも民主主義そのものの矛盾であり、崩壊の予兆でもあるのだ。
長い『スターウォーズ』シリーズのなかでも後半に作られた3作「エピソード1、2、3」はいわばジェダイ騎士団の大敗の物語である。と同時にジェダイが死守しようとする議会制民主主義の敗北の物語である。
そもそもその物語のはじまりから銀河連邦議会はただしく機能していないようにみえる。独立国(星)であるはずのナブーにある日とつぜん交易権拡大のために通商連合、つまり資本家による売買の利潤のみを追求する現代でいうヘッジファンドのような組織が侵略してくる。主権を侵されたナブーは代表団を銀河連邦議会に派遣しナブーの窮状を訴えるが、議長は官僚のいいなりの傀儡政権であり議員たちも自己と地元の利益を優先するばかりでことはいっこうにすすまない。後のダークシディアスであるパルパティーン議員は、議長不信任案を可決させたあとナブーへの同情票を集めてみずからが銀河連邦議長となり権力奪取をはかる。そもそもナブー問題は不信任案を可決させ議長に信任するための手立てでしかなかったのだから、事件はそれでもいっこうに解決しない。健全に機能していない議会に見切りをつけ、ナブー代表団はみずからのちからで通商連合と戦う道をえらぶ。
そこにからむのがジェダイである。ジェダイは銀河連邦議会から切り離された機関として巧妙かつ曖昧に描写される。通商連合とナブーとの調停役、無届けの兵器工場の視察、テロリストとの交戦、犯罪者の捜査、要人警護、軍隊の指揮など作業項目はしんじられないほど多岐にわたっている。いわば連邦共和国という崩壊寸前の治世形態のほころびをなんとか繕ってまわる共和国の影の、そして強力な軍事的能力をもった存在なのである。現代のアメリカでいうならペンタゴンとCIAとFBIを足して3で割ったようなものだろう。しかもその権力はすさまじく強く、かつジェダイ評議会という独自の意志決定機関によってその行動は決められ、しかも超法規的処置も許可されるようだ。ジェダイの助けがなかったら、ナブーはその後も通商連合による不法な侵略とジェノサイドから自由になることはなかっただろう。
ところがここで不思議なことに気がつくのである。パルパティーンが議長をとる銀河連邦では、ナブー問題は先送りにされたままで議会としての結論はでていなかったはずである。議会制民主主義をしく連邦共和国の最高議会がナブーを見捨てるといっているのに、連邦の守護騎士団であるジェダイはなぜ連邦共和国議会の決定をまたずに、あるいはそれに逆らって、ナブー主権のために内戦をおこしたのだろうか。なぜこの独善的な軍事行動がどの議会からも非難されないのだろうか。
日本でいうなら沖縄問題がこれにあたる。沖縄の地方自治としての主権はもうながらく侵略されっぱなしである。主権どころかもはや沖縄というアイデンティティーさえ犯されている。その沖縄の主権のために、国民保護法をたてに自衛隊の統合幕僚議会が内閣の決定を無視して沖縄で内戦をおこしたとしたら、それはゆるされることなのだろうか。
あるいはパレスチナ問題はもっとナブーにちかい。パレスチナではその主権、領土は言うに及ばず人権や人命そのものが、いまこの時間にも侵略され虐殺されているのに、われわれはそれにたいしてなにもすることができない。イスラエル建国を後押しするアメリカ連邦議会が、軍事的・経済的支援を決議したのだから、われわれは議会において強力な「多数」であるシオニズムに従うほかないのだ。
ジェダイのおこなっていることは、だからけっして「民主主義の守護」ではないのである。民主主義であるなら、たとえその議会が腐敗していようと不健全であろうと、多数決で決められた決議はまもらねばならない。ナブーの悲劇はパレスチナの悲劇である。ジェダイがパドメ議員にシンパシーを感じナブー国民の窮状を救おうとするその理由よりももっとおおきなところで事は決せられているのだ。
議会の決定を裏切ってまでジェダイが奉じるのはつまり「正義」である。『エピソード3』でパルパティーンの本性を知ったジェダイマスターのメイスウィンドゥは、私刑という超法規的処置によってパルパティーンを暗殺しようとする。それをとめようとアナキンは「(殺さなくても)裁判にかければいい」ともっともなことを言う。驚くべきはこの発言に対するメイスウィンドゥの回答である。「いや、裁判所もこいつの手に落ちている」そう言うのである。もはやジェダイは議会どころか民主主義そのものの根幹さえ裏切ろうとしている。それもひとえに「正義」のためなのである。
もとよりナブー侵略は、通商連合という商取引と投資による資本家の連合であり、議員や与党はその企業・資本家連合からきっと莫大な献金を受けているに違いないのである。しかも通商連合やコマースギルドが目指しているのは、けっしてナブーの主権を侵略することそのものなのではない。多少の犠牲をはらってでも、資本主義としてさらなる利益を追求し、その利潤を投資家や(たぶん)株主に還元することのみ考えているのにちがいない。その犠牲に目をつぶるかわりに、商業は発展し、経済は活況になるのである。そのために高い献金をしているのである。通商連合の代表であるヌートガンレイ(中国人の格好をしている)は政治的な発言は一切していないのだが、ナブーに荷担するジェダイをみてこう思っただろう。「ナブーという小さな正義のために、もっとおおきな大義を捨てるのか、ジェダイよ」。
ナブーからみた正義と、通商連合からみた正義はちがう。そもそも正義とはそういうものだ。もしかするとナブー国民のなかにも通商連合に賛成するものがいたかもしれない。通商連合参加企業のなかにも「それはやりすぎだろう」と思っている投資家や資本家もいたかもしれない。あるいはジェダイ評議会に内心は反対するジェダイの騎士がいたかもしれない。それぞれ、みな自分の利益や立場や環境や信条やその他もろもろの理由によってちがう意見をもっている。正義はそのなかのひとつのファクターでしかない。数の理論をとる代議制民主主義ではその少数意見は存在しないことになるしかないのだ。
ジェダイが間違え、大敗を喫することになったのはここを混同してしまったからであり、この長いジェダイの物語が伝えているのもそのおなじことなのである。つまり、民主主義と正義とはまったく別物であるということ。代議制民主主義は、多のために少を殺し、結局どこにも存在しないマジョリティーという人格に奉仕し続ける不完全な統治システムである、ということだ。
だから冒頭の、反民主主義的なアナキンの発言に驚くパドメに驚くのである。ジェダイという軍事的強権がなければいまにも崩壊しそうな銀河連邦共和国の民主主義と決別した行動によって故国(星)を救ったはずなのに、パドメはいまさらいったいどのような統治方法に理想があると考えているのか。パドメが極端に忌み嫌う帝国主義は、裏取引や工作があったにせよ正当な手続きで、それこそ民主的な代議制議会の手続きにおいて、パルパティーンという悪魔を議長にしたのではなかったか。それはあのナチス・ヒットラーを誕生させたのが、代議制民主主義であったのとおなじである。1933年の3月に、ナチスは正式な選挙によって288議席を獲得して連立与党となったのであり、その2日後からドイツの公共の建物にはあの忌まわしい「鉤十字」が掲げられるようになったのである。
アナキンの発言にたいするパドメの驚きは、正義がもっとも重要であると彼女が考えているからである。その正義の対極にあるのがパドメの思考では帝国主義というだけのことなのだろう。またアナキンにはアナキンの考えがある。連邦をよくし、腐敗と私欲から議会を救うためには権力と武力をもつ統治者が必要であるという考えである。これはこれでアナキンの正義だろう。
銀河連邦の全市民の「正義」を組み合わせてひとつの意見に集約したとき、どうしてそれが全員の納得できる正義になると言えるのだろうか。その後に生きるわれわれがみて、1933年3月のドイツ国会の解散総選挙はまちがえた民意の反映であったとわかる。しかし当時ナチの危険性を察知して反対したものもいたけれど、代議制民主主義という制度の下ではどうしようもなかったのだ。われわれはことあるごとにナチスという黒歴史を反省する。しかしナチスを直接うみだした代議制民主主義そのものを反省することはない。むしろ、代議制民主主義はナチスの対極にある健全な制度であると信じて疑わないのである。むしろ、そう教育されてそだった。
映画『スターウォーズ』の「エピソード1・2・3」をみて思うのは、このような代議制民主主義は国家統治としてまったく機能していないし、これまでにおいても、実は一度も健全に機能したことはなかったのではないのだろうか、ということである。
民主主義という近代社会の根底に据えられた人道的社会統治システムは、しかしそれゆえにこそ、その欠落や危険性を指摘することもましてそれに反対することもタブー視されているのである。なぜなら欠落だらけの危険なシステムであっても、われわれ人類はそれにかわる「よりましな」制度でさえ発明できずにいるからだ。その代替案のなさが、いまある代議制民主主義への硬直した忠誠になっていることはまちがいない。われわれは遠い銀河の宇宙人にまで民主主義への忠誠を誓わせて満足しているのだ。
だが、代替案がないからといってその制度すべてを鵜呑みにし盲信する必要などじつはどこにもない。欠落を修正し、危険性のバッチ処理をおこなうことは恒常的になされるべきである。
そのような意味において「民主主義をアップデートする」という理想を語る、東浩紀の新刊『一般意志2.0』の目指すところはすばらしい。今ある代議制民主主義だけが民主主義の統治形態ではない、とおもいだすきっかけとなるだろう。
著者が本書中なんども「これは夢である」と明言しているものをいちいちつっこんでまわるのも気がひけるが、しかしルソーからアーレント、ハーバーマスへとつらなる「公共」の考え方にたいしてツイッターやニコ動やフェイスブックなどのSNSやグーグルがどのような変化をもたらしたのか、という話であればもっと興味深かったのだが、それをルソーが『社会契約論』の1章をつかってのべた「一般意志」がSNSやグーグルによってルソーから2.5世紀後に実現されようとしている、というやや楽観的すぎる論旨であるのがなんだか低俗なビジネス書のようになってしまった理由であると思われる。
また、ルソーとその『社会契約論』の拡張にしてはその解説がまるで高校生むけ参考書のような薄っぺら感で、しかしグーグルやツイッターやニコ動やフェイスブックがいかに「一般意志」を実現させるものか、という具体論はぜんぜん具体的でもユニークでもない。つまりルソーを得意とするオジサンには「ウェブってすごいぜ」という啓蒙書であり、SNSに詳しい若者には「ルソーってすごいぜ」という啓蒙書であって、結局、哲学として両者をつなぐことはできていない。
インターネットは、まちがいなく「公共」という概念をかえたし、各自の知識の持ち方もかえた。公共と知がかわったことで、われわれの意識と社会性はどのようにかわったのか。かわった部分にあわせて、公共を管理する国という統治システムもかわらなければならない。国民の知識の媒質がかわった以上、これまでの制度ではその知をうまくすくいあげることはできないからだ。だとするなら、変化した公共と国民の知にあわせた選挙制度、代議員制度、メディア利用を考えるべきだ。そうすることで、2.5世紀前にルソーの語った難解な用語「一般意志」が実現されるのかもしれない。・・・といった論旨にすべきだったような気がするのである。
しかし、どちらにしても用心すべきは、代議制民主主義を絶対的な制度だと思うことである。独裁主義者が洗脳によって国民から批判精神を取り除こうとするように、代議制民主主義という制度だって無意識に国民を洗脳しているのだ。
どのようなものであれ、「制度」とはその制度そのものを永遠にする努力のことである。だが、長くなったので「公共」と「制度」にかんしてはまたべつの夜に。