おはぎと雇用と消費問題 アレント『人間の条件』『責任と判断』

1940年代に売り出した当初、ケーキミックスはさっぱり売れなかった。ケーキミックスは、あんなに手間のかかるケーキを水と混ぜるだけで作れるようにした画期的発明だったのに、なぜか売れなかったのである。
悩んだピルズベリー社は心理学者でありマーケティングの専門家のアーネスト・ディヒターなどに調査を依頼した。ディヒターの出した調査結果は意表をつくものだった。ケーキミックスは便利すぎるから売れないというのだ。
アメリカ人にとってケーキは特別な料理である。家族の誕生日やクリスマスを祝うイベントの中心に位置するものである。そこがクッキーやパンケーキとちがうところだ。もしその料理から手間をとってしまうと、主婦や料理人にはなにがのこるというのか。手間がかかるからこそ、ケーキはだいじなお祝いの中心に位置していられるのだ。
そこでピルズベリーはケーキミックスから卵黄を取りのぞいた。家族のために「自分がつくった」と思い込める最後の一線として、卵を入れて混ぜるというプロセスをあえてのこしたのだ。(CURRiER Japon 10月号)
案の定、その後ケーキミックスは爆発的に普及したという。ケーキミックスがあたりまえになった今でもアメリカ人にとってケーキは特別な料理であるし、家庭ではいまもケーキがお祝いの中心に位置している。

ピルズベリー社がケーキミックスにほどこした卵黄を別にするというアイデアは、工業製品が家庭に侵入してくることの違和感を和らげるための懐柔策であったのだろう。ピルズベリー社のこのみごとな懐柔策によって、ケーキはその生産の場を家庭から工場に、それと気づかれずに移したのだ。もっと極端にいうと、ケーキが「産業化」され、経済の消費の側面から生産の側面へと立場をかえたのである。
同じように、ぼたもちやおはぎはごく最近まで日本の家庭で手作りされていた。お彼岸になると各家庭でぼたもちをつくり、おはぎを先祖にお供えしていた。
ところが都心部でおはぎをいまだに手作りしている家庭はもう稀だろう。ふつうスーパーとか和菓子屋とかで買うだろう。ぼたもちやおはぎは、ケーキのような懐柔策もないまま、その地位を産業に明け渡したのだ。
このように、最後の一線とおもわれていた家庭料理もいまや産業化され、経済構造の重要な一環となっている。「味気ない時代になった」と嘆くのは簡単だが、それではわれわれを取り巻く巨大な産業構造の全体を見ることもできないし、グチにしかならない。
DIYなどの趣味は別として、椅子やテーブルを家庭で手作りする人はもういるまい。家具は家具屋で買ってくるものだ。住宅もそうだろう。自分の家を自分の手で作る人は、よほどのこだわりのある変人以外いないだろう。家具だろうと住宅だろうと、所詮は人が手で作るのに、どうしてわれわれはその賃金をはらって他人に作業させるのだろうか。

ひとつには専業というスキルの問題がある。餅は餅屋で、という専業スキル伝承の問題である。
かつては地域という共同体がそのスキルを地域間で伝承してしいた。親から子へ、老人から若者へと伝承される、それは村社会のメリットのひとつであった。かつては住居のひとつぐらい、地域住民があつまれば設計図もなく簡単に建てることができた。それほどに地域全体が伝承する知の集積は高度で確実性のあるものだった。
ところがいつのまにかその伝承していたはずのスキルさえわれわれは失ってしまった。しかしかつてより比較にならないほど複雑化した住宅を建てる技術を、人類はいまでももっている。だからスキルを失ったわけではないのだ。その伝承スキルは、専業する企業のなかに居場所をかえたのである。設計図となりマーケティングデータとなり、先輩から後輩へ、上長から部下へと、いまでも確実に受けつがれてはいるのだ。だから専業というスキルの問題は、なぜ住宅や家具やおはぎを他人に作らせるのかという疑問の回答にはならない。個人や家庭がものを作ることをやめた途端にわれわれはそのスキルを失ってしまったということであり、それは原因ではなく結果であるからだ。

政治哲学者のハンナ・アーレントはその著書『人間の条件』で、この家庭と個人から「仕事」を奪う産業構造にかんして書いている。もともと人間の「仕事」は2種類に類別されるという。ひとつが、作業の対価として完成物がのこされる「仕事(work)」である。「仕事」をすれば、その結果完成品がのこる。住居や家具をつくるのはまさしくこの「仕事」に対応する。もうひとつは、生命維持のためにしなければならない作業としての「労働(labor)」で、労働には対価は支払われない。あくまでも生物としてその生活を保守するための活動である。
ところが近代化、とくに産業革命によって「仕事」は極端に減少していく。椅子も机も工場で生産される。工場では家庭や個人から「労働者」に身分を替えた人間が椅子や机を生産する。しかし対価としてものがのこるわけではない。今日、工場で椅子を2000個生産したとしても、そのうちのたった1個でさえ労働者のもとにはのこらない。これは「仕事」ではなく「労働」である。だから対価はものではなく賃金で支払われる。貨幣という流通可能性を手にすることで、人間は家庭や個人や地域社会の一員という立場から一挙に社会・経済構造の一部に組み込まれるのである。

産業を発達させるためには、さらなる物品の産業化が必要になってくる。家庭でつくれたはずのケーキやおはぎも産業に組み込むことで、産業という経済構造は徐々に巨大になってくる。それを下支えしているのが労働であり、労働を供給するシステムである雇用である。
産業構造に組み込まれた労働者は、爆発的な勢いで「もの」を産業化させ生産させる。飛躍的に増大した生産能力は、いつのまにか諸個人の消費能力をはるかにこえるものになってしまう。消費能力をこえた生産物を処理するために、労働者はまたもとの家庭人にもどってつぎには消費の側へ自分の余暇をついやさなければならなくなった。われわれ現代人が余暇を楽しむというのは、月曜から金曜までに生産した物品を、土日の余暇をつかって消費することである。週5日働いたから2日は自由なのではないし、2日の余暇のために5日のつらい労働を我慢しているのでもない。週5日の労働を成立させるために土日にあわてて消費をしているのである。
アーレントはこうも言っている。
「車の生産は、人々の移動手段のためではなく、雇用の獲得のために必要であるという見解は、ほぼ全世界の共通認識となっている」(『責任と判断』)
最近の若者は車離れが顕著であるという。そりゃそうだろう。週5日満足に働いていないものが、どうして土日の消費を手伝ってやる必要があるのだ。車は移動のための必需品ではないことなどだれでも知っているのだから。
雇用とはそのような意味であるし、日本のメーカーがよくいう「ものづくり」とはこのような消費サイクルのことであって、本質的にはけっして「プライドをかけて一生つかえる最高品質のものをつくっています」という意味ではない。そのようなものを生産するとは、今ある産業構造自体を破壊しかねないし、破壊するとは大多数の雇用を失うということでもあるのだ。
逆を言うと、家庭でおはぎを手作りするたびに、どこかで雇用が消えていくのである。末永くひとつの車に乗り続けると、どこかの派遣が職を失うのである。こういった生産・消費サイクルに巻きこまれたわれわれは、成長という方向でしか雇用を維持し、かつ産業を健全化させることはできない、と思っている。「共産主義よりはマシ」という程度の欠落だらけの資本主義というゼロサムゲームではそうならざるをえないだろう。

いま、日本国内はTPP問題で混乱ぎみだ。消費者は安くてよいものだけをもとめそれが国民の幸福である、というのが永遠の真実であればTPPもよいだろう。TPPに賛成か反対かというのではない。またおはぎを家庭でつくるべきかどうかという議論にも興味はない。気になるのは、消費経済の成長スパイラルで犠牲になったものがほんとうに不必要なものから順に消えていったのかどうかということである。経済学者のジョン・ガルブレイズは言う。
「わたしたちはもともと欲しくなかったものを手にするために汗水たらして働くのだ」。
TPP問題が掲載されている同じ日の新聞に地球の人口が70億をこえたという記事があった。この半世紀で人口は倍になったという。生産の効率化がすすめば余暇はさらに増えるだろう。それはさらなる消費義務をわれわれが背負うということである。70億の雇用を用意するだけでも気が遠くなるのに、70億が今以上に消費する社会では、いったいなにが犠牲になるのだろうか。そのあたりを見据えた上でTPPを語りたい、と思ったりした。


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