梅棹忠夫と南方熊楠


フランスのエリート中のエリート高等師範学校であるエコール・ノルマルに、1920年代に様々な哲学者や作家などが誕生した。なかでもサルトルを中心とした実存主義哲学やその基礎となった現象学の権威が多くあつまった。メルロー=ポンティ、シモーヌ・ド・ボーヴォワール、ポール・ニザンなどである。
サルトルは、ヤスパースの翻訳やベルリン留学時に現象学者フッサールに学んだことなどで、哲学界の新思潮「実存主義」を開花させていく。その後、実存主義は大きく発展し、世界的なブームとなる。
そのサルトルと実存主義の影で才能を発揮できずにいた同時代の天才がいた。それがクロード・レヴィ=ストロースである。
1960年代に入り、アルベール・カミュやメルロー=ポンティとの思想的決別がありながらも絶頂を迎えたサルトル=実存主義に、レヴィ=ストロースは満を持して強烈な批判を浴びせる。それが著書でいう『野生の思考』であり、社会人類学の現代思想「構造主義」であった。
普段、本なんか読まない人々までが『嘔吐』を購入するほど流行ってしまったことや、サルトル晩年のソビエトへのシンパシー表明などの問題が影響しているのかもしれないが、今では実存主義は「過去にあった思潮のひとつ」程度の認識しかされていない。いまさら実存主義を学ぶ大学生は希有な存在だが、構造主義を学ぶものならゴマンといるのだ。そういう時代になってしまった。
サルトルやボーヴォワールが実存主義思潮を世界中に展開している時、たった3才年下のレヴィ=ストロースはまさか60年後にこの関係が逆転するとは思っていなかっただろう。
レヴィ=ストロースは自分の著作を使って、思想の体系を反転させたのだ。これほど大きな歴史の転換をひとりの人間が実行できることに驚きもするが、それをなしえるためには、「思想体系」という目に見えない思想の組織化、社会化が必要であったのだろうと思う。
それはレヴィ=ストロースにとっては「構造主義」とよばれる体系であったし、サルトルにとっては「実存主義」という思想体系であった。
学問・思想界では著作そのものによる対決よりも、その「著作が及ぼす社会的影響」の対決の方が歴史を変えるファクターを孕んでいるのだ。

梅棹忠夫展入り口
そんなことを考えながら先日、国立民族学博物館の「梅棹忠夫展」へ行ってきた。無責任な言い方をすれば、民俗学者の展覧会なんてほとんど意味はない。展示できるものと言えばメモ帳、スケッチ、手紙、原稿ぐらいだ。案の定「梅棹忠夫展」もそういうものだったのだが、なんとかしてそこをおもしろく見せようとする建築家的な努力がオシャレに反映されていた。
いちばん目をひいたのは梅棹忠夫の几帳面さだった。メモやスケッチもそうだが、やはり彼が残したカード類は大雑把な性格の人にはとてもじゃないが真似できないものだった。会場には、彼が実際に使っていたソーシャルネットワーク管理のための大量のカードが展示されていた。梅棹忠夫はカードというものについてこのようにも言っている。

「カードはコンピュータに似ている。・・・どちらも、知的生産のための道具としては、いわば『忘却の装置』である」

ToDoリストにしても名刺カードにしても、データベースとよばれるものはおよそ忘却のためのものである。重要な情報をいったん記憶から外に追い出すことで、現代人はその仕事のほぼ半分を達成しているのである。年々複雑化する仕事内容に対して、われわれは単一のことをバカ正直にひとつずつこなしていく能力しか持っていないため、「その他」の仕事をいったんどこか紛失しないところに保存しなければならない。ひとつの仕事を終わらせるためには、その他の仕事は邪魔なのである。もっと簡単に言うと、われわれ人間は、ふつう電話をしながらメールは書けないし、まして会議しながら企画書は書けない。限りある脳の働きを有効に使用するためには、関連する膨大な情報をいったん忘却する必要があるのだ。
そのために、人は名刺、カード、スケジュール帳、ToDo、データベース、ハードディスク、コンピュータといった利器を考えた。いやむしろ考えたからこそ逆に仕事が複雑になったのだ、という議論はいったんおくとしても。
しかし事はそれほど単純ではない。忘却にもウマイやり方とそうでないやり方がある。ひとつの作業がそれ単体で完結するような仕事はまれなのである。例えばミルクを買いに行く作業を終えた後いったん家に帰り、次におなじスーパーにチーズを買いにあらためて行く人はいまい。ミルクとチーズ購入の作業はセットにすべきである。しかしミルクが急ぎで必要なのに、チーズの特売は夕方からだったとしたら、その人は2回スーパーに行くべきだろうか。スーパーを往復する時間とカロリーと、特売で得られる金銭を比較すべきだろうか。その比較のための時間はどこに計上すればいいだろうか。
時間のかかる仕事のやりかたをする人と、どんな仕事もあっというまに終えてしまう人とどちらがすぐれているかということを比較するつもりも、まして価値判断を下すつもりもない。しかし、少なくとも効率的な仕事のしかたをしている人は、みなあるいみ忘却の才能があるような気がする。それは、プライオリティーと近似性、関連性を同時に考慮し、各々の作業の影響範囲を予測し、さらにそれらの順位付けによる効率化を考えながら、やるべき作業とやり終えた作業を整理できれば、仕事の半分は終わったようなものである。あとは単純化された純粋な作業がまっているだけだ。われわれは決算報告書の数字のすべてを記憶する必要もないし、そのように求められてもいない。重要なのはそれがどこにあるのか、どうすれば必要な人間に共有させることができるかという、知のアドレス管理なのである。
知的生産の仕事に的を絞れば、それは仕事の体系である。梅棹忠夫でいうなら「京大カード」に代表される学問方法であり、知へのアプローチである。アプローチの方法が、およそ例外に出会わぬほど強固なものであれば、その学者はそれによって数々の発見をするだろうし、発見によってそのアプローチはますます強いものとなりさらに彼を助けるだろう。
ビジネスマンが仕事効率化をはかるのとは決定的に違う部分として、もしそのアプローチに彼独自の思想が武器となって反映されているのであれば、それは「学問体系」というものとなる。彼が考えたビジネスマンのような仕事の手順が、思想理論に裏打ちされることで社会化されるのだ。

梅棹忠夫のカード
彼の几帳面なカードを見ていると、梅棹忠夫はそこを徹底的に押し広げ社会に浸透させることに成功した人だと思えてくる。人間社会に雑然と無意味にちらばる素材を体系付けるのが民俗学であるとも言えるのだから当然といえば当然だが、しかし他の民俗学者と比較しても彼の学問の体系化は人並みをはるかに越えてすぐれていた。民俗学者でなかったとしても、彼はどの社会カテゴリーでも成功していただろう。好きでさえあれば、彼は大企業の社長にでもやすやすと登りつめる体系と社会化の影響力をもった人物であったろう。実際、民俗学という小さくない社会カテゴリーの中で彼はその頂点まで登りつめ、いまや師である今西錦司よりも社会的には有名である。規模の違いや、民俗学と文化人類学という差はあれど、思想体系で社会に影響力をおよぼすこと、レヴィ=ストロースにちかい。

おなじ民俗学者の南方熊楠は、14年もの長きにわたってアメリカとイギリスへ留学し、しかも大英帝国博物館の東洋図書編纂部の職に就き、「ネイチャー」や「ノーツ・アンド・クィアリーズ」といった有名雑誌に無数の論文を発表しておくだけの希有の才能を持ちながら、彼はただのひとつの学位もとらずに、まるで手ぶらで日本に帰国している。弟の常楠はそれをみて、積年の鬱憤がいっきょに爆発したそうだ。いったいなんのために14年も仕送りを受けてイギリスに留学していたのだ、と。実の弟でなければ、巨人熊楠に対してこのようなことは言えないだろうが、逆をいえば弟ならばこのように落胆だってするだろう。なぜなら、学問の価値は学位であり、どこかの体系に属さなければ学位はもらえず、学位がないならその学問はだれからも評価されていないということであるからだ。
また、南方熊楠はまとまった書籍というかたちで自分の思想を表現していない。たまたま相手が保存しておいてくれた土宜法竜宛書簡によっておぼろげな概要が残る程度である。難解といわれる「南方曼荼羅」も、相当な玄人の土宜法竜にあててさらさらっと落書き程度に書いた渦巻きのようなきたない図がのこるのみである。だから後生のわれわれはものすごい勢いで話が脇道にずれる書簡の内容に苦労しながら、この子どもの落書きみたいな曼荼羅がどのように深遠な思想と真理を宿しているのかをほとんど自分の想像と理論の組み立てで再構築しないといけない。だから当然「難解」になる。もし南方熊楠が体系立てた素人向きの「解題南方曼荼羅」のような本を書いていたら、われわれはどれほど楽に生命と密教と民俗学でできた独特の小宇宙を自分のものにしていたことだろうか。
南方熊楠は偉大な人物であり、途方もない知の巨人である。彼の知能がいかにすぐれていたかは、現代に残る数々の逸話で理解できる。中学生の時、近所の蔵書家の家に通ってその日読んだ部分を家に帰ってから紙に書き写すことを繰り返して、『大鏡』も『太平記』も『和漢三才図会』などもすべて暗記力だけで筆写したという。おなじ中学生時代に漢訳の『大蔵経』まで読破し、そのほとんどを筆写している。また留学から帰国した時点で18カ国語を自在にあやつっていたというし、当時の日本では40種もなかった時代に、彼が発見した粘菌だけでも178種を数えたという。1909年にはアメリカ農務省の代理としてスウィングル博士が召喚状をたずさえて南方の住む田辺を訪問している。アメリカ農務省高官として渡米しないか、というのである。それほど彼の実力は高かった。
しかし、学位もないし、肩書きもないし、大学を卒業さえしていないし、思想全体を表現する論文もなく、粘菌においてもその名は記録に残らず、主著もなく、その人物名を知ってはいても書籍名はだれも知らず、主義と呼べる名前ももたず、そしてなにより一切の「思想体系」をもたないまま彼は死んでいった。けっきょくわれわれは、その驚異的な記憶力や数々の奇行や風貌や、夏目漱石の14年前にイギリス留学を果たしたという年譜によってだけ彼を評価しているにすぎないのだ。かの孫文が、柳田国男が、ディキンズが、土宜法竜が、昭和天皇が、彼をすさまじく評価しているからわれわれも彼を評価しているにすぎない。その中央にあるはずの彼の「思想体系」が、中村元が「南方曼荼羅」と命名した生命と世界の相互関係の秘密をつたえてくれるはずの「理論」が、彼のすべての書物のどこにも書かれていないし、どの大学でも彼の思想体系を引き継いで教えているところがないのだ。レヴィ=ストロースがなにを考えていたのか知りたければ今すぐ本屋にいって「構造主義」と書かれた本を数冊買ってくれば事足りる。しかし南方熊楠の思想を捉えるためには、われわれはまず彼の伝記から読み始めなければならない。学問が体系化されていないから、残されたわれわれは彼そのものを勉強するしかないのだ。

誤解されたくないので言うが、ボクは南方熊楠の評価が高すぎると言っているのではない。南方のような日本人は後にも先にもいないだろう。逆に、自身の思想は言うに及ばず、知へのアプローチ方法さえ徹底的に体系化し社会に広めた梅棹忠夫の功績が「学者の出世」だと言っているのでもない。ただ、われわれが手元に残った「思想」というものを、なんの先入観もなく見ているつもりでも、それは学問という狭い社会の窮屈なルールの中を勝ち抜いてきたひじょうに社会的で功利的な勝者の中からだけ選びとっている、という事実を指摘したいだけだ。
もし誰かが思想や哲学で社会を変えようと思うなら、まずはその社会のルールにどっぷりと浸かった上で、その社会に適応できる体系を準備しないといけない。レヴィ=ストロースが「構造主義」という社会化された体系でサルトルの実存主義を超えたように、熟考や研究の末にある画期的な結論が生まれたのなら、その次にはその結論を今度は社会に広げるための体系化が、ある意味において結論以上に必要とされるのである。
そうやって学問や思想界の中で「出世」した柳田国男や土宜法竜やディキンズや、現代であれば南方の研究を素人向けに書いた中沢新一や鶴見和子がいなければ、われわれは南方熊楠という知の巨人の名前さえ忘れていたところなのだ。

「梅棹忠夫展」の帰りには、どこか寂しい気もするそんな結論めいたことを抱いて帰宅の途に就いたのであった。梅棹忠夫展は6月14日まで国立民族学博物館で開催中。



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