『ドラえもん 新・のび太と鉄人兵団』とアニミズム

1931年にジェイムズ・ホエール監督の映画『フランケンシュタイン』 が公開されたとき、暗い劇場内は半ばパニックになり、あまりの恐怖に失神する女性が多数でたという。前年におなじユニバーサルから『魔人ドラキュラ』が上映されていたし、実験的映画とはいえ1910年には原作をおなじくするサール・ドーリー監督『フランケンシュタイン』が公開されていたのだが、それでも多くの観客にとって映画が恐怖をえがくのを見るのははじめての経験であった。映画とは、過去の歴史や遠い国の物語や普段みることのない貴族の恋愛をたのしむものであって、架空の物語、狂気の人物、未来の技術、恐怖の描写、驚愕のフィクションというものは見たことがなかった。だから人々はとまどい、おそれ、驚愕した。
これはメアリー・シェリーの原作『フランケンシュタイン、あるいは現代のプロメテウス』においてもおなじである。当初この小説は「ゴチック小説」とよばれ「ロマン小説」に分類された。そのとき、「SF」という概念はなかった。今では『フランケンシュタイン』こそがSFの始祖であり、その原型であるとする意見が主流である。
つまり、SFというジャンルは「恐怖」と「未来の科学技術」と「人造人体」とともに生まれたのだ。だから、今でもSFといえば未来や近未来においてロボットが反乱する物語が多く、もっともポピュラーな筋書きである。キューブリックの『2001年宇宙の旅』では、人間の言葉を理解し自律的に思考する高度人工知能の「HAL」が、モノリス調査のため月を出発した乗組員を殺害する。また、リドリー・スコット監督『ブレードランナー』は、遠い宇宙の過酷な労働から脱走し、人間社会に紛れ込んだ人造奴隷「レプリカント」を殺害する孤独な刑事の物語である。近年では、破壊的方向に誤作動してしまった人工防衛システム「スカイネット」が支配する暗黒の未来を描く『ターミネーター』や、人間から発生する微弱な電力を供給源とする機械システムが人間に夢というプログラムを与え続ける未来を描いた『マトリックス』など、例をあげればキリがない。
『フランケンシュタイン』は恐怖映画でもあるが、人々はフランケンシュタイン博士の造った怪物そのものが怖かったのではない。人間が創り出したクリーチャーが創造主に反乱をおこすこと、およびわれわれ人類が神のような創造主になるかもしれないその可能性が、観客に生理的嫌悪をかんじさせ、倫理的恐怖をよんだのだ。「ロボット三原則」でも有名なSF作家アイザック・アシモフは、この恐怖を「フランケンシュタインコンプレックス」と名付けた。そこには、絶対的一神教であり、創造主である神への畏怖を持ち、自然と人間とを連続して考えることを冒涜とかんじ、人間は神の似姿であると信じるキリスト教徒の信仰と社会秩序がある。

『ドラえもん 新・のび太と鉄人兵団』はSFのセオリーであるこのフランケンシュタインコンプレックスに則った物語である。
人間に作られたはずのロボットたちが、ロボットだけの社会である「メカトピア」を創造し、地球の人類を奴隷にしようと目論む。ひょんなことからこの事実を知ったのび太とドラえもんたちは、メカトピアの野望を阻止するべく、メカトピアの人型ロボット、リルルとジュードのちからを借りて悪のロボットたちと戦う。
基本的な筋書きは西洋で発生したフランケンシュタインコンプレックスをもとにしながらも、しかしこの映画には日本独特のロボット解釈が多分に含まれている。古くは日本書紀にその原型を見ることができ、神道の重要な要素であり、仏教入植のはるか以前からわれわれ日本人の信仰の基本理念となっている、動物にも草にも木にも山にも川にも石にも、この世の万物に神が宿るという「アニミズム」がそれである。
ロボットであるはずのドラえもんは、その実質の「主人」であるのび太とおなじ部屋に寝起きし、おなじ食卓で食事をし、主人にタメ口をきき、いわんやそのことをのび太の父も母も不思議には思っていない。ドラえもんは「文明の利器」というよりは完全に家族である。その認識はメカトピアのロボットたちにもむけられる。のび太やしずかちゃんなどの登場人物のだれひとりとして、相手が「ロボットだから」戦わなければならない、とは考えていない。侵略者だから地球を守らなければならないという単純な正義感が戦意を支えているだけなのだ。その証拠に、のび太たちの言う「人間の尊厳」をいち早く理解したリルルやジュードらは、最終的に地球人の味方となってメカトピアと戦う。そこでは「ロボット対人間」という構図は重要ではなく、倫理観に根ざした近代ヒューマニズムが分界線となる。だからこの映画のほとんどすべての観客は、メカトピアから押しよせるロボットの大軍をみても『フランケンシュタイン』の観客がかんじたような、生理的嫌悪も倫理的恐怖もかんじない。

日本人にアニミズムの傾向が強いのは、なにもロボットアニメだけに限らない。謎の野生生物「ポケモン」を捕獲し調教することで「トレーナー」のちからそのものにしようとする『ポケットモンスター』は、アニミズムというよりは、むしろネイティブアメリカインディアンや南米の無文字文明に多くみられる「トーテミズム」である。
主人公サトシらがポケモンをつかって戦う世界は、われわれが現実に生きている世界と微妙にことなる異界においてである。ポケモンのちからがあれば、現実世界と異世界への移動は容易におこなえる。日本人にとって「異世界」への移動は、「古事記」にあるような「現世」と「常世」を連想させる。おなじ「古事記」には「むこうがわ」と「こちらがわ」を分ける石にたいする信仰「磐座信仰」が書かれている。そこでは石そのものの霊力が境界を維持し、悪霊を拒み、良い霊を迎えるちからを持っているという。また社というものが発明される以前の古代日本には、磐座を丸く囲んで神を祀った祠や、神籬(ひもろぎ)が多く残されているという。
石でさえそのような霊力や依り代となるちからがあるのならば、森にすむ生き物にももっと大きなちからがあるだろう。古代人は、動物のもつその霊力を体内に取り込もうと画策し、あらゆる儀式をおこなった。日本にも南米にも北米にも、供犠にされた生き物の血や肉を煮たものをかけて祀るための岩が残されている。八重山ではそれを「ビジュル石」とよぶ。余談だが、たぶん生き物の肉を煮た「煮汁」からでた言葉だろう。(『アニミズムの世界』村武精一)
ポケモン原作者の田尻智はポケモンのアイデアを、彼が子供のころに近所の山や田で、虫やザリガニをとったときの記憶から生まれたと語っている。そのなかで彼にもっとも馴染みの深い生き物であるオタマジャクシをモチーフとして、最初のモンスター「ニョロモ」ができた。(アン・アリスン『菊とポケモン』)
文化人類学者で国立民族学博物館名誉教授の岩田慶治は、大学生を対象とした「あなたにとっての原風景とはなんですか」というアンケート調査をおこなった。結果、彼らが答えたのは、子どものころセミやオタマジャクシを捕まえた自然の風景だという。(田中純『都市のアニミズム──小さなカミたちの人類学に向けて』)
また田中純は、「(日本古来の)カミは生活の場に時を定めずに出没し、教義をもたず、文化的に十分にかたどられるにいたっていないのに対し、(キリスト教が代表する西洋の)神は文化的な意味と言語の場に組み込まれており、出現と退出の決まった時と場所をもっている。こうした弁別は、いままでシャーマニズムや多神教、一神教に先立つ未開な神観念と見なされてきた、アニミズムのカミ観念の再評価と結びついている」という。これに関してはクロード・レヴィ=ストロースも『今日のトーテミズム』の中で、トーテミズムがもつ小宇宙は、自然と人間との非連続性に支えられたキリスト西洋思想のなかでは今までじゅうぶん理解されていなかった、と言う。
ポケモンは、虫や魚や小動物がもつ不可思議なミクロコスモスを、子供たちが利用し自らのちからとして活用するアニミズム、トーテミズムのデジタル化であり、バーチャル体験である。それが日本発の文化であり、およそアメリカのアニメーターや玩具メーカーでは考え出せなかったのはそのような理由からである。さらに、アメリカの社会学者のアン・アリスンはその著書『菊とポケモン』において、いつでも携帯できる小さな機器「ゲームボーイ」「DS」を単なる道具とはせず、他者とのコミュニケーションツールとし、学習による自己向上に役立てようとする日本人を評して「テクノ=アニミズム」とよんでいる。ディスニー作品と比較するとき、一方がつねに映画的であり劇場型であることに対して、ポケモンの独創性は「テクノ機器」による「体験」と「参加」と「携帯」であるとする。中沢新一はポケモンの成功を「癒し」と「携帯性」と言っている。どこにでもありかつどこにも入口のない常世やニライカナイは、田中純の言うような「生活の場に時を定めず出没」する「カミ」とおなじユビキタスであり、それはポケモンの「遊風景」でもある。

さらにアニミズムの思想が濃いのは、宮崎駿である。
長編映画『千と千尋の神隠し』では、オシラサマ、春日大社の春日様、牛鬼などの「八百万の神」が休息のために訪れる湯屋「油屋」が舞台である。そこには埋め立てられ暗渠となった川の神「ニギハヤミコハクヌシ」も「ハク」という名で働いている。油屋に迷い込んだごく普通の女の子千尋は、「仕事のないものに居場所はない」というハクの言葉に従い湯女として働くようになる。まるで「丁稚奉公物語」のような勤労賛美の前半ののち、重要な神が二体現れる。ひとつは人間の汚染によって傷ついた「河の神」であり、もうひとつは得体のしれない招かざる客「カオナシ」である。
河の神ははじめ「腐れ神」として登場する。ハクとおなじく人間の近代化と開発により本来の姿をなくしてしまった河の神は、体内にある人間の捨てたゴミやヘドロを千尋が取り去ることで再生し、人間には持ち得ないちからを復活させて立ち去る。
逆にカオナシは人間の醜い業を体現した神として描かれる。唯一自分に優しくしてくれた千尋に対し、カオナシは偽物の金を与えて気を引こうとする。しかし千尋は「わたしの欲しいものは、あなたには絶対にだせない」といい、一般的価値による懐柔をきっぱりと拒否する。しかし、湯屋の強欲な従業員たちは金を産むカオナシをもてはやし、大量のご馳走を与えてどんどん大きくさせてしまう。巨大化し、食い散らかし、空虚な宴会で持ち上げられるその姿は、バブル経済に慢心したかつての日本人の、巧妙で悲しいカリカチュアである。いちばん大切なものだけは手に入らず、その穴を埋めるために大量の消費をし、止めどもないその循環のなかでしか自己認識ができない。
河の神にしてもカオナシにしても、その現状に変化を与えるのは、別の神ではなく、ごく普通の女の子の千尋である。宮崎はアニミズムだけで近代の諸問題を克服できるとは思っていないのだろう。カントもヘーゲルもよその国のできごとととらえるわれわれ日本人には、歴史のなかに連綿と続く合理主義や人間至上主義といった思想はない。アニミズムは、それらの西洋思想に対抗するわれわれの基礎となる故郷であり、「原風景」である。宮崎が描こうと目論んだものは、アニミズムという日本人の原風景を基礎として、その上に千尋でさえ持ち得ていた「勤勉」や「無私」、「謙虚」といったひどく旧来の価値観が、もしかすると河の神を再生させ、カオナシに本当の価値を教え、ハクを暗渠から救い出すことができるということなのではないだろうか。

もともと、アニメーションの語源は「生気をあたえる」といった意味のラテン語「anima」である。おなじanimaから派生したアニミズムという語も無生物に生気を見る思想である。われわれ日本人の生活は、実のところアニミズムに満ちている。食前に「いただきます」と一人でつぶやき、ボロボロになった道具でさえ捨てるのに後ろめたさをかんじ、山や滝や杉に祈り、ドラえもんを家族としてあつかう野比家に違和感をかんじない。
かつてほどの勢いはないとしても、アニメーションが日本の重要な文化的輸出品目であることは間違いない。その日本のアニメーションは、自然と人間との非連続性を信じるアメリカ・ヨーロッパ文明に対して、意識するとしないとにかかわらず、なんらかの立場を明確にすることを求めるのである。それは拒否するとか、今まで通り「未開文明の残滓」と切り捨てるとか、受け入れるとか、あらゆる態度が可能性として考えられる。しかし、その中心に資本主義をもつ近代文明発祥のアメリカ・ヨーロッパであるからこそ、みずからの近代化に根ざす諸問題を解決するオルタネイティブな方法論としてのアニミズムに対して、無視するという選択肢はないのである。この無視できない立場に立たされるということこそ、アメリカがおしすすめるグローバリゼーションのもうひとつの側面を表現しているのだ。
しかしボクは、宮崎駿とおなじく高度資本主義経済に根ざす近代の諸問題が、アニミズムという思想だけで解決できるとは思っていないし、しかしそのためにわれわれが持つべきものが旧来の価値観の復権であるという意識もあまりない。ただ、アニミズムも「旧来の価値観の復権」も、レヴィ=ストロースの言う近代の「構造」を理解するさいの、強力な思考グリッドにはなると考える。われわれが直面しているのは、「資本主義」か「こころの豊かさ」かといった二項対立の単純な図式ではないはずである。あるいはもっと単純に「西洋近代主義」か「日本古来の思想」かといったものでもない。むしろ、そのように「構造的」な問題を単純化する作業に、われわれの陥る罠があり、誤謬があるのだ。

・・・といったことを、近所のトーホーシネプレックスで『ドラえもん新・のび太と鉄人兵団』をみて考えさせられた。疲れる映画である。

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