「死の都」への門  | 『死の都の風景』書評


  • パウル・ツェラン『死のフーガ』
  • シルリ・ギルバート『ホロコーストの音楽』
  • オットー・ドフ・クルカ『死の都の風景』
  • カフカ『掟の門』

ナチス強制収容所への輸送計画を業務としていたアイヒマン中佐は、戦後逃亡先のブエノスアイレスではリカルド・クレメントと名乗って生活していた。通報を受けて極秘調査をしていたイスラエルのモサドが、クレメントとアイヒマンが同一人物であると最終的に断定したのは、クレメントが花束を購入した日がアイヒマンの結婚記念日と一致していたからだという。
この逸話を聞くと、いつもなんとも言えぬ暗い気分になる。アイヒマンが凡庸な役人であったというのはよく知られていることだが、危険を冒してまで妻をアルゼンチンに呼び寄せ、記念日には花束まで買って帰るという「善良さ」に戸惑うのである。
しかし元も子もない言い方をすると、それは、小市民的な「善良さ」は容易に想像できるが、600万の殺戮に対する想像がいかに難しいことであるかという意味でもある。当のアイヒマンですら、自分の「業務」が引き起こす罪を償うのに、いったいどれほどの小市民的善良さを持ってすればよいのか考えたこともなかったろう。だからこそホロコーストは「殺人の工業化」であったのだし、「彼らを嫌悪していない人ですら彼らを死地に送ることができる(アーレント)」状況を作り出せたのだ。
このことは、歴史的事実の提示だけではホロコーストを把握することは難しいという問題に通じる。家族を愛するナチス将校という事実は、彼がおこなった行為を軽減するいかなる理由にもならない。しかし、愛妻家としての彼と、殺人者としての彼が、2枚のカードとしてならべて置かれる状況は、見るものに混乱を引き起こす。
もし、家族を愛するアイヒマンのカードにしかわれわれは同一化できないのだとしたら、ホロコーストを伝える努力はそもそもどのようになしえたらいいというのだろう。この「なしえない努力」にかんして、自身もナチスの迫害を逃れてアメリカに亡命した哲学者・批評家のジョージ・スタイナーは端的にこう書いている。

「アウシュヴィッツの世界はそれが理性の外側にあるように言葉の外側に横たわっている」(ジョージ・スタイナー『言語と沈黙』)

そしてまた、「ナチズムの下では、言葉は、人間の口がかつて一度も語ったことのないこと、紙にかつて一度も書き記されたことがない事柄を言う道具として使われた」と言っている。
それは思うに、家族を愛する人間性とホロコーストの非人間性が、おなじ「現実」という母体から生み出されたという事実理解の限界である。ホロコーストを表現する言語がないと言われるように、この現実の中には、両者をつなぐ言語があきらかに不足しているのである。

パウル・ツェラン全詩集

1941年に両親を殺害され自身も強制収容所で過酷な労働を強いられた詩人のパウル・ツェランの代表作のひとつ『死のフーガ』には、ライトモチーフそのものに、この現実の理解不能な二面性が多く見られる。
豊饒や栄養、自然、成長、母性といったものをイメージするミルクが反転した黒色であること、それを毎日飲む彼らには、地底につながるはずの墓が雲のように空にあるということからはじまり、『死のフーガ』は数々の矛盾や撞着語法によってなりたっている。
詩の6、14、22、32、35行目には、ナチス将校が本国に住むブロンドの恋人「マルガレーテ」に恋文を書く様子が差し挟まれる。ユダヤ人を呼び集め、その墓を掘らせ、彼らを煙にするナチ看守が、対比において語られるユダヤ人ズラミートの髪を灰にし(つまり焼いてしまうということだろう)、ブロンドの恋人に手紙を書くのである。ズラミートがソロモンの花嫁であり、マルガレーテという名がドイツの偉大な作家ゲーテの『ファウスト』に登場する恋人グレートヒェンの別名であることを考える時、その意味は善悪の「2枚のカード」を超えた、多層的な理解しかゆるされない。
『死のフーガ』が1947年にブカレストの雑誌に発表されたときのタイトルは『死のタンゴ』であった。このモチーフに関してツェランの伝記作家ヨーン・フェルスティナーは、1944年に発行された赤軍のプロパガンダ用小冊子「ルブリン絶滅収容所についての報告」に、ルブリン=マイダネク絶滅収容所でユダヤ人楽団が労働現場やガス室への選別の際にもタンゴやフォックス・トロットを演奏していたと書いていたものを、ツェランが当時みたのではないかと書いている。(エンツォ・トラヴェルソ『アウシュヴィッツと知識人』)
これはルブリン=マイダネクだけの話ではない。トレブリンカでは移送されてきた人々をユダヤ人からなる10人編成のオーケストラが出迎え、ガス室が稼働している間中、ジャズやユダヤ民謡の演奏があった。ベウジェツとソビブルではしばしばゾンダーコマンドの仕事の伴奏として楽団が音楽を演奏し、驚くべきは囚人に対する拷問時にさえオーケストラが演奏されたという。(シルリ・ギルバート『ホロコーストの音楽』)
『ホロコーストの音楽』のなかでシルリ・ギルバートはこう書いている。

人間性を奪う強制収容所の影響を人々がどう中和するのかという救済の概念を、歴史研究もまた支持してきた。英雄的行動という分かりやすいナラティブを歌からとりだした戦後社会は、それらが表現している体験の複雑さを捉えることに事実上、失敗した。さらに言えば、ゲットーと収容所の歌の多くがそのようなモデルにはまったく従っていなかったという単純な事実を見落としたのである。

オトー・ドフ・クルカ『死の都の風景』

イスラエルの歴史家オトー・ドフ・クルカが、何年もの間にカセットテープに吹き込んだ、自身の収容所体験の記憶をまとめた『死の都の風景』にも収容所での音楽体験が書かれている。
赤十字視察を欺くために作られた模範収容所のテレジエーンシュタット(テレジン)からアウシュヴィッツへと移送されてきたクルカとその家族は、通常の囚人とは違い、家族棟とよばれる特別待遇の施設に入れられる。
この本を読むまでテレジンのような「家族棟」がアウシュヴィッツにあったとは知らなかった。そこでは家族は一緒に過ごすことができ、持参した服を着ることが許され、子どものための教育まで行われていたという。
その教育のなかに子どものための合唱団があった。イムレと呼ばれる指揮者について、他の多くの子どもとともにクルカも合唱をしたという。
しかしその家族棟もけっきょくは半年の運命だった。ナチスは赤十字などの国際団体の視察がまた発生した時のために、予備としてテレジンの囚人を残しておいただけだったからだ。
母と別れ(それが死別となる)、一般棟に移動させられた10歳のクルカが合唱団で習いおぼえた音楽をハーモニカで吹いていると、同室の囚人が「自分が何を吹いているか、知っているのか?」と聞く。「あの、いま吹いているのは、あっちの区で歌った曲なんだ」とそう答えるクルカに、男はその歌がベートーヴェンの交響曲第9番であり、その歌詞であるシラーの「歓喜の歌」にどのような意味があるのかを教えた。
男はアウシュヴィッツで「歓喜の歌」を歌うおびただしい不条理を、まだ幼い子どもに教えようとしたのだ。ガス室のあるクレマトリウムから数百メートルしか離れていない場所で、子どもらはなにも知らずにシラーの「歓喜の歌」を合唱していたのである。「歌で称えられるのと同じ人間を呑み込む大火が、私たちが話していたその瞬間、私たちがそこにいたあいだずっと、燃え続けていた」。目の前に殺害された死体が山のように積み上げられ、半年後にはこれらの子どものだれ一人として生きている保障のない、希望も未来もない「死の都」で、なぜ教師はこの歌を選んだのだろうか。
クルカはふたつの可能性を考える。第一の可能性は「最後は炎だけが終止符を打てるという価値基準を信じないで、身を捧げたのか。つまり人は命ある限り、自由やそれに類するものを取り込むということ」であり、第二の可能性は「無邪気な人間を管理し、無邪気な価値観を、崇高で素晴らしい価値観を植え付けるが、そんな価値観には目的も意味もない(…)一種の悪魔的な一人遊び」だったのかということだ。それはどんなに考えてもわかることではない。ただ、ベートーヴェンとシラーはかつてアウシュヴィッツで歌われており、「それはもちろん私だけの神話の一部である」ということだ。

1944年にガス室で殺害されたイムレはもはやその答えを返さない。もし生きていたとしても、イムレでさえ明確な理由を伝えることは困難であったと思う。なぜなら、クレマトリウムの縷々とした死と「歓喜の歌」という、この相反する事実が同じ現実の母体から生み出されたという認識は、ツェランのような詩においてようやく重層的に理解できるものであるし、そもそもクルカの体験そのものが「言語の外側にある」からだ。
アウシュヴィッツで見た青空がクルカの少年期の「原風景」となっていることについて書かれた部分も、同じことなのだと思う。「言語の外側」で体験した少年期を、あとから読者のありふれた「原風景」と対置して考えることはできない。われわれは、「少年の時にみた青空の記憶」という有り体な「内側」の言葉が、吹き飛ばされて瓦解する様を自分自身で読みとるしかないのである。

クルカはこの『死の都の風景』以外に個人的な収容所体験を発表していないし、数名をのぞいて彼の同僚でさえ彼がホロコースト・サバイバーであることを知らなかったという。(「訳者あとがき」)
クルカは、戦後に歴史学者としてホロコーストにかんする学会に出席した時のことを書いている。礼儀で出席したその会議で、クルカはむしろ疎外感を感じたという。

そして疎外感に打ちのめされた。そこには二種類の言語があるーーひとつは私に理解できない言語、もうひとつはそれを通してあの時代を生きるための言語である。

この疎外こそが「内側」と「外側」の断絶であるのだと言ってしまうことも可能かもしれない。だが、それよりもツェランが晩年もっともよく読み返し、クルカがそこで引用しているカフカの『掟の門』のなかで、門番が最後に言うセリフがこの現実の難解さと語ることの不可能性を、もっとも端的に言い表していると思う。

カフカの『掟の門』では、田舎からやってきた一人の男が門番の立つ「掟の門」を通ろうとする。男が「掟の門」を通ろうとすると、門番が「いまはまだダメだ」という。男は許されるまで門のかたわらで何年も待ち、懇願したり贈りものをするが門番には通じない。長いあいだ待ち続けた男はとうとう病気になり力尽きようとしている。死のまぎわに、これまでのあらゆることが凝結してひとつの問いとなった。男が門番に問う。
「誰もが掟を求めているというのに、この永い年月のあいだ、どうして私以外の誰ひとり、中に入れてくれといって来なかったのです?」
門番はこう答える。
「ほかの誰ひとり、ここには入れない。この門は、おまえひとりのためのものだからだ。さあ、もうおれは行く。ここを閉めるぞ」

この門がどのような意味なのかは読者の自由に委ねられているが、クルカが発表するつもりもないままカセットテープに吹き込んだ長年の行為は、ボクには、自分のためだけに開かれた、しかしそこを通ることが許されないこの門と重なってみえるのである。

つまり私は、他のどんな方法でも、他のどんな門を通っても、あの場所には入れない。私がここでひらいた、私ひとりのために開けたままの門を通って、他の人たちは入ることができるだろうか? それは可能なのかもしれない。なぜなら、カフカがひらいたこの門は、たったひとりのKのために、ヨーゼフ・Kだけのために考えられたこの門は、実際には誰にでもひらかれているようなものだから。だが彼にとっては、彼だけの神話へ続く唯一の門だった。

アウシュヴィッツにいたときに10歳の少年だった男は、その門が閉じられる前に問いかけたのだ。その答えを信じなければ、自分の子ども時代の風景は失われてしまうからだ。だからこそ、70年たってようやく書かれたこの書物は、ホロコーストの語りえぬ問題そのものをまったく新しいかたちでわれわれの前に提示することを可能にし、極端に難しいこの問題を解決したのだと思う。
(敬称略)




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