日常への強制 『望郷と海』『ショアー』『シンドラーのリスト』


2011年3月11日、ドイツ思想研究家の細見和之は新幹線で大阪から東京へむかっていた。停電が発生し新幹線はゆっくりと止まると、そのまま3時間半も停車してしまった。ようやく到着した東京では帰宅難民が街を埋めつくしていた。ホテルのテレビで、ようやくその日の地震の規模が理解できたという。(『津波の後の第一講 <私たちのショアー>』)
当初予定していた仕事は当然キャンセルになり、翌日大阪へ向けて帰ることになった。あれだけの大惨事のあとだというのに、東京駅へ行くと電光掲示が光っている。「東海道新幹線は平常運転しています」と。
細見はここで昭和の偉大な詩人、石原吉郎の言葉を思い出す。「日常への強制」という、昭和45年に発売された彼の全集のタイトルにもある言葉である。

1938年に諜報部員として招集された石原吉郎は、1945年のソビエト参戦によって戦犯として捕らえられ、以後8年間、バムのラーゲリ(強制収容所)で過酷な強制労働に従事させられた。その当時のことを石原は『望郷と海』などの散文にも書きのこしている。
しかし過酷なラーゲリの記憶を語る石原の言葉が価値をもつのは、被害者の側を超えた「日常」に対する問題視と内省があったからである。

たがいに生命をおかしあったという事実の確認を、一挙に省略したかたちで成立したこの結びつきは、自分自身を一方的に、無媒介に被害の側へ置くことによって、かろうじて成立しえた連帯であった。それは、我々は相互に加害者であったかもしれないが、全体として結局被害者なのであり、理不尽な管理下での犠牲者なのだ、という発想から出発している。それはまぎれもない平均的、集団的発想であり、隣人から隣人へと問われて行かなければならなはずの、バム地帯での責任をただ「忘れる」ことでなれあって行くことでしかない。私たちは無媒介に許しても、許されてはならないはずであった。(「強制された日常」以下おなじ)

ドイツ・フランクフルト学派の哲学者テオドール・アドルノは、「アウシュビッツの後では、もはや詩を書くことは野蛮である」と言った。
事実、石原はラーゲリの8年よりも、帰国したあとの3年の方が苦痛であったという。

私は八年の抑留ののち、一切の問題を保留したまま帰国したが、これにひきつづく三年ほどの期間が、現在の私をほとんど決定したように思える。この時期の苦痛にくらべたら、強制収容所でのなまの体験は、ほとんど問題でないといえる。苛酷な現実がほとんど一つの日常となってしまった状態から、もう一つの日常へ一挙に引きもどされたとき、否応なしに直面せざるをえなかった二つの日常の間のはげしい落差は、めまいに近いものであった。そしてこのようなめまいのなかで、かつて問われつづけた自分自身をもう一度問いなおして行く過程は、予想もしなかった孤独な忍耐とかたくなな沈黙を私に強いた。

ソビエトのラーゲリから帰国した石原には、われわれが「日常」とよんでいるものが欺瞞でできた「一方の側の日常」でしかないことが見えていた。
その孤独の上で、さらに自分が被害者であるだけではなく相互に生命を犯しあった加害者でもあり、そしてまたさらに憐憫する日本人がソビエトのラーゲリとおなじ罪を犯していることを告発することもしなくてはならなかった。

ジェノサイドのもっとも大きな罪は、そのなかの一人の重みを抹殺したことにある。そしてその罪は、ジェノサイドを告発する側も、まったくおなじ次元で犯しているのである。

日常とは、個の生命や個の精神という「一人の重み」を抹殺し平坦にしたところに発生する時間のことである。
あれだけの地震と原発の過酷事故を体験しながらも、社会はいち早く日常を回復しようとやっきになる。地震の翌日に平常運転する新幹線を見て前述の細見は違和感とともに石原の「日常の強制」という言葉を思い起こした。それは秩序の復旧でもあるのかもしれない。しかし、徹夜の懸命な復旧作業によって回復するわれわれの日常は、石原の目にはもう一つの過酷で強制された日常として映っていたのである。
日常に対して「それが当たり前である」という価値観から自由になるには、石原のようなめまいにも似た「二つの日常の間のはげしい落差」を体験しなければならないし、そのあとにつづく「かつて問われつづけた自分自身をもう一度問いなおして行く過程」を通らなければならない。

細見和之は地震と原発事故のあと、学生向けにクロード・ランズマンの『ショアー』を上映する授業を再開する。
『ショアー』はナチスのホロコーストを体験した被害者(ユダヤ人)、加害者(ドイツ人)、傍観者(ポーランド人)それぞれにインタビューした9時間を超すセミドキュメンタリー映画である。
安易なヒューマニズムを超えたずっと先にあるホロコーストという問題を、だれもが理解できる「お話」にまで丸め込むスピルバーグの陳腐化の手法を嫌い、ランズマンは『シンドラーのリスト』を激しく批判した。正義という観念とおなじく、ヒューマニズムはホロコーストの前では無力であったし、アーレントの言うように知性さえナチズムに加担したのだ。そういった「善」の観念の完全な敗北という問題を、シンドラーという局所的に発生したヒューマニズムとしてわれわれの見知った「日常」の側から語ってすましてしまえるものなのか。そもそも結論をだすことも引き受けることも不可能な問題、詩を書くことさえ野蛮になってしまう異常事態を、なぜ無理に日常の文脈に作り変えて日常の中に配置できるよう陳腐化しなければならないのか。
そういう意味で『シンドラーのリスト』という映画は、「徹夜の復旧作業」とおなじ働きをしているのだと思う。それは日常への強制力である。われわれの奥にあるとてつもない「悪」の問題をなきものとして、そのかいま見えた恐怖の素顔をすばやく隠す笑顔の仮面としての日常の提示である。

日常への強制は、細見が地震の翌日にみたJRの掲示を筆頭に、次々とわれわれに襲いかかる。それは政府発表の言葉となり、ニュース番組の姿となり、経済問題の文脈となり、決算書の形となり、仕事のシフトとなり、レポートの締切となり、そうしてわれわれを覆い尽くす。
なぜあんな事故が起こってしまったのか。どうすればこの問題を回避できるのか。そういった根本的ななすべき議論が、日常の細事にとりこまれ丸め込まれ陳腐化され、なきものとして消えていく。あれだけの過酷事故が、なんの反省もなく、どんな引受人もないまま、また放置され忘却され日常に覆い尽くされていく。
ふたつの現実の落差にめまいを感じ、そのあいだに横たわる深淵に恐怖した今こそ、あの事故がわれわれに与えた「かつて問われつづけた自分自身をもう一度問いなおして行く過程」をはじめる唯一のチャンスだったのではないか。それをわれわれは、「日常を取り戻す」という美名を口実に、またしても見逃そうとしているのではないのか。石原吉郎の詩や散文を読むたびに、そういう焦りを感じるのである。
(敬称略)


このブログの人気の投稿

「ファミキャン」ブームがきもちわるい件について。『イントゥ・ザ・ワイルド』『地球の上に生きる』

トマス・ピンチョン『V.』とはなにか?

イデオロギーによるリンチ殺人 山本直樹『レッド』・ドストエフスキー『悪霊』・山城むつみ『ドストエフスキー』

異常な愛とナチズム 『愛の嵐』『アーレントとハイデガー』

メタ推理小説 『哲学者の密室』『虚無への供物』

インフレする暴力映画 『ファニーゲーム』

うつ病とメランコリア 『メランコリア』ラース・フォン・トリアー

イスラームへの旅 サルマン・ラシュディ『悪魔の詩』

フエンテス『アルテミオ・クルスの死』書評(年表、登場人物表)

『コード・アンノウン』ハネケ