テロリズムとデモンストレーション 『風流夢譚』『天皇の逝く国で』『ショックドクトリン』


木下恵助と今村昌平によって2度映画化された『楢山節考』の原作者、深沢七郎はある日、夢を見た。
夢では、東京で大規模な民衆蜂起がおこっている。一部クーデターの気配もあるという。警察と自衛隊が内部分裂し、武力衝突が起こっているそうだ。
街中が騒然とするなか、深沢は民衆の流れにのって皇居へ行く。皇居では革命軍が皇后陛下を取り囲んでいる。夢のなかの深沢はなぜか「このクソババア」などといいながら皇后陛下と取っ組み合いのケンカをする。そして正直者の深沢七郎は、そのあと夢の中でおこる恐るべき出来事を彼のエッセー『風流夢譚』に記載する。深沢とのケンカのあと、斬首された皇后陛下の頭部がぽろりと地面に落下したというのである。
これが雑誌「中央公論」に掲載された直後から、激怒した右翼が深沢七郎宅や中央公論社に街宣車でおしかけるようになる。深沢は警察に保護されて住居を転々とし、長らく放浪生活をおくったといわれている。
翌1961年2月、大日本愛国党の17才の党員が中央公論社社長の嶋中氏の自宅に押しかけて、不在であった嶋中の代わりに妻を刺し、さらにそのとき家にいた家政婦の女性を刺し殺すという事件が起こった。
しかし、問題にしたいのはこの後である。右翼によるテロリズムの被害者であるはずの中央公論と嶋中社長が、中央公論の名によって全国の新聞に「謝罪広告」を掲載したのである。無関係な人間が殺され社長夫人が重傷を負わされた側が、国民に対して謝罪をするというのである。さらに、それが日本の言論出版を担うかの「中央公論」という知の巨人であったことに、当時の知識人らはおおいに驚き、絶望したのである。『風流夢譚』はたしかに軽率で不敬なのかもしれなかった。しかし最後まで戦うと思われていた出版人が、威嚇行為とテロリズムにたいして憲法で保障された権利をあっさりと投げ捨て、謝罪までしてしまうのであれば、いったい誰が言論を守るというのか、と。


1988年12月7日、長崎市定例市議会で、共産党議員が市長に質問をした。「天皇陛下に戦争責任はあるとお考えですか?」。それにたいして市長3期目をつとめる本島等市長(当時)は、一部条件をつけながらも「天皇陛下に戦争責任はある」と回答した。
折りしも昭和天皇が病院で吐血と下血をくりかえし、日本各地に「すみやかなご快復を請願する記帳所」が設けられ、会社の重役はゴルフコンペをとりやめ、結婚式場は大量のキャンセルを抱え、飲み会では「乾杯」を「いただきます」と言い、百貨店では赤いネクタイが店頭からはずされ、テレビプログラムからいつもの笑いが一斉に消え去り、メリークリスマスの「メリー」が「ホワイト」などの言葉に言い換えされる、いわゆる「自粛ムード」まっただ中のことであった。
だから、マスコミはこのとき一斉にこの発言に飛びついた。本島市長の言葉は文脈から切り離され、日本中をかけめぐったのだ。
「天誅」をもとめる右翼の街宣車はすぐにやってきた。 ところが大方の予想を裏切り、本島市長は議会での発言を「撤回も謝罪もしない」と言ったのである。
市長というものは、「高速道路を建設したり、新幹線の停車駅を自分の市に誘致したりすることに精を出す」ものだと思っていた人々はおおいに驚いた。自民党県連は「誰のおかげで市長になったか思い出させてやる」とまで言ったという。(朝日新聞1988/12/13)
シカゴ大学東アジア言語文化学科のノーマ・フィールド教授は、この発言の時期のまずさから「常識をふみやぶった者に社会がぶつける怒りの集中砲火だった」と、日本文化研究の新しい古典とも言われるその著書『天皇の逝く国で』の中で書いている。
2年後の1990年1月、右翼団体正氣塾の構成員が至近距離から本島市長を銃撃した。さいわい死ぬことはなかったが、「行きすぎた言論」への天誅ははたされたということだ。


パニックや災害に乗じて利益を上げる市場原理主義を書いた『ショックドクトリン』の著者ナオミ・クラインは、ウォール街占拠(Occupy Wall Street)の参加者にむかってこうスピーチしたという。
「ウェルカム」
つまり自分が搾取される99%の側にいると気づいた者たちのチームへようこそ、ということである。ウォール街占拠の動きは、最近の日本でいうと反原発運動にあたるだろうか。日本ではめずらしく10万人とも20万人ともいう人数が反原発というシングルイシューによって抗議行動に参集した。
そもそもデモンストレーションは憲法第21条によって保障された権利である。深沢七郎や本島長崎市長が思ったことを書いたり言ったりするのとおなじ保障の上になりたつ行為である。だがここで間違えてはいけないのは、街宣車で乗り付けた右翼が天誅をさけんだり、謝罪や発言撤回を大声でスピーチするのもおなじ第21条によって保障されており、それらは法律上なんの違いもないということだ。
それらを明確にわける分界線があるとするなら、それはそのデモンストレーションの背後に彼らがテロリズムの脅威を持っているかどうかである。右翼の街宣車が恐ろしいのは、中央公論の嶋中社長宅を急襲・殺害し、本島長崎市長を狙撃した過去をもつからである。その過去のテロリズムにおいて、そもそも彼らは威嚇行為をするのである。
テロリズムは言論を抑圧する。いっぽうデモンストレーションは言論の拡大表現である。封殺のテロリズムに負け続けだった日本の「言論の自由」は、今後もしかすると新しい保障を手に入れるかもしれない。反原発運動をみていてそう感じる。もしそうなったら言いたい。「ようこそ」と。



※『風流夢譚』は販売差し止めのため「深沢七郎集」には掲載されていません。


このブログの人気の投稿

「ファミキャン」ブームがきもちわるい件について。『イントゥ・ザ・ワイルド』『地球の上に生きる』

トマス・ピンチョン『V.』とはなにか?

イデオロギーによるリンチ殺人 山本直樹『レッド』・ドストエフスキー『悪霊』・山城むつみ『ドストエフスキー』

異常な愛とナチズム 『愛の嵐』『アーレントとハイデガー』

メタ推理小説 『哲学者の密室』『虚無への供物』

インフレする暴力映画 『ファニーゲーム』

うつ病とメランコリア 『メランコリア』ラース・フォン・トリアー

イスラームへの旅 サルマン・ラシュディ『悪魔の詩』

フエンテス『アルテミオ・クルスの死』書評(年表、登場人物表)

『コード・アンノウン』ハネケ