ファウスト博士の原発開発 『ファウスト』『スピヴァク、日本で語る』



『ファウスト』戯曲第一部において、愛する女グレートヒェンを救えなかった痛手から、かの有名なファウスト博士は残りの人生で国家的大事業をなすことを心に誓う。
まずは財政破綻を目前にひかえた神聖ローマ帝国へと赴いたファウスト博士と悪魔メフィストフェレスは、ありもしない地下の財宝を担保にした兌換紙幣を大量に発行させ一時的に財政危機をしのぐ。
そしてメフィストフェレスの3人の部下の力によって戦争を勝利に導き、皇帝から海沿いの湿地帯の土地を与えられる。
この土地を干拓し自分の王国を築き、さらには海そのものを埋め立てるという自分の計画に心酔したファウストは、菩提樹の丘からの立ち退きを拒む老夫婦を、メフィストフェレスによって強引に新開地に移動させようとする。しかしメフィストフェレスと3人の部下は、老夫婦とそこに居合わせた旅人もろとも殺害し小屋に火を放ってしまう。それを聞いたファウストは、メフィストフェレスを罵りながらこう言う。

私は交換を望んだので、掠奪する気はなかった。
浅はかな乱暴な仕打を、私は呪う。

それを聞いた悪魔の3人はこう歌う。

言い古された文句が、聞こえるようですね、
権力にはおとなしく従え。
もしお前が大胆で、張り合うなら、
家も屋敷もーーわが身をも賭けるんだ。

その後ファウストのもとに4人の「灰色の女」がやってきて彼の視力を奪う。
盲目になったファウストは、メフィストフェレスらがファウストの墓穴を掘っている音を、干拓のつちおとと思い込み、感動のあまり賭にした台詞を言ってしまう。
「瞬間よ止まれ、お前はいかにも美しい」
そしてファウストは悪魔との契約通り息絶える。

以上がゲーテの『ファウスト』第二部のあらすじである。
個人の欲望を叶えることに失敗(第一部)したファウストは、次に「海を埋め立てる」という壮大な計画にのりだす。だがその大計画も、足もとのほんの小さな抵抗によって失敗してしまうのである。
だが悪魔であるメフィストフェレスらは、老夫婦の殺害によって計画がむしろ進行していると思っている。悪魔の理論では、権力にさからうなら「わが身をも賭け」なければならないからである。ファウスト博士が嘆いた「掠奪ではなく交換を望んだ」という言葉も、メフィストフェレスには「抵抗」と「命」の交換という意味に聞こえていたに違いない。
湿地干拓という壮大な都市計画をめぐるこの「交換」という言葉の解釈ほど、ファウスト博士とメフィストフェレスの隔たりをあらわすものもなかろう。
この「交換」という語がうみだす悲劇は、ファウスト博士の時代から現在にいたるまで実はずっと続いている。


むしろこの「交換可能性」を高めるということが近代化といってもよいぐらいである。そもそも経済とは価値交換によってなりたつ社会であるからだ。
一国内での交換可能性が限界まで到達すると、成長を志向しつづける経済原則は、次には外国との交換可能性をもとめようとする。自国の商品を他国に売るには、その2国間に資本にたいする同じ交換システムがなければならない。それらを標準化し資本の移動を容易にすることを、今われわれはグローバリゼーションと呼んでいる。
だが実際グローバリゼーションは、交換可能ではあっても平等な交換システムであるとは限らない。そもそも基軸通貨であるドルは、その7割が国外を流通しており国内流通のみの円や、あるいはペセタ、レアル、ディナール、ペソのように乱造によってインフレを引き起こす心配が極端に少ないと言える。アメリカ国外で財をなしたものは、円やユーロのような安定通貨でないかぎり、あわてて資本をドルにかえるだろう。
しかも、ことは通貨だけの問題ではない。植民地主義という圧倒的な過去を武器に、先進国は交換条件を突きつける。するかしないかの二者択一は、どれと交換するかとうことであって、交換そのもののシステムを拒否することではない。交換を拒むとは「未開」の低開発国に仲間入りするということである。
われわれがグローバリゼーションと呼んでいるのは、そういった経済という姿をした帝国主義の基礎の上に築かれたものなのである。
インド系アメリカ人の比較文学者のG・C・スピヴァクは「グローバリゼーションは、ゆくゆくは(世界が)均一になるという偽りの約束をすることになる」と言う。(『スピヴァク、日本で語る』)
グローバリゼーションの問題は、すべてに「交換可能性」をもとめるということである。低開発国は、いずれ先進国が通った道を必ず通るであろうという驚くほど楽観的で単純な唯物史観の傲慢さを持っているということである。
ファウストが菩提樹の丘にすむ老夫婦のために用意した代替の住まいは、彼の目には今まで以上に立派で理想的な家であると思えた。彼は言う。

それに、あの老夫婦を入れる
新しい住まいも眼に見えるようだ。
あの夫婦は、おれの寛大ないたわりを心に感じて、
晩年を楽しくおくれるというものだ。

彼の傲慢は、価値の交換可能性にたいしてこれっぽちの疑いもないところである。スピヴァクが言う「<善>による抑圧」である。交換の概念そのものが通じない「未開の」人たちには、もはやどのような対話もありえないのである。近代的であるはずの「交換」の概念が共通のシステムとして機能しないのであれば、ファウストのような「権力」のあるものは、一挙に植民地主義者の方法に引き戻されてしまうからである。残るのは、暴力と強制による「掠奪」しかないのである。
だから「交換」を拒否した老夫婦は惨殺され、その家までも燃やされてしまうのである。相手に「交換」を求めるとは、つまりそういう暴力性を根本にはらんだ行為であるということだ。



原発問題で「安全か電気か」という設問をみたことがある。
この二者択一を見るたびにボクは恐怖するのである。交換可能価値を創出する過程において、いつのまにか命や健康や個人的生活などの交換不可能価値までが「交換」を推進するグローバリゼーションの言説に紛れ込んでしまっているからだ。
バーターという条件そのものを拒否するものに対して、ファウストのような権力者、つまり原発を推進する政府は、コロニアリズムに与しない第二の方法を持ちえているのであろうか。そうでないのなら、交換の概念が通じない「未開の」「権力におとなしく従う」ことのない反対者たちには、どのような「暴力」と「強制」が待っているのであろうか。干拓や原発という「開発」の名の下に、これ以上われわれからなにを「掠奪」しようというのであろうか。
ファウストのなし遂げようとした干拓の王国造りは、そもそもありもしない財宝をあてにした兌換紙幣の乱造によって勝ち得たものである。早晩崩壊したであろう虚栄の国家のために死ぬのは、戯曲のなかだけじゅうぶんだと思うのである。





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