ヒューマニズムにがまんできない 『人間の条件』

人間であるためには条件があるという。
古代ギリシャ文明においては、その条件はびっくりするぐらい明瞭に設定されている。それは、文法、論理学、修辞学、算術、幾何学、天文学、音楽の「自由7科」とよばれるこれらの基礎知識を得たものだけが「人間」の称号をあたえられ、そうでないものは人間以下の生き物だとされた。
キリスト教がうまれ、中世になるとこの考えは否定される。人間は原罪を背負った生き物であるのだから、そのまま肯定できるものではない。そのためには、古代ギリシャのように学問だけをがんばったらすむわけではない。人間の本質・条件は原罪を克服しようとする神への忠誠と愛をつづける過程において実現されるものだというのだ。
この暗い時代の幕開けを告げ、一挙に人間そのものに光をあてたのが、ルネサンスである。ルネサンスでは中世によって否定された、古代ギリシャの知を再度学ぶことで古代ギリシャ人のいう「人間らしさ」を身につけ、人格を磨くという目標をもった。そしてイタリアに端を発したルネサンスの代表的な思想家のペトラルカやマキャヴェッリの人文主義が、ラテン語の「フマニスタ」とむすびついてヒューマニズムという語となった。
だがルネサンス期のヒューマニズムは、現在のような定義ではなかった。あくまでも古代ギリシャ文明やラテン語の文献から「人間らしさ」というものを再発見するその学問的行為を「ヒューマニズム」とよんだのである。
それが現在のような意味の「ヒューマニズム」となったのは18世紀以降である。そこでは問われている「人間の質」が学問だけではなくもっと広い定義となった。
その定義が、古代ギリシャ文明よりも広く寛容になった大きな理由のひとつとして「都市化」があげられる。
慢性的な貧困状態の農村から、人々は都市部へ仕事をもとめて流入してきた。都市部は人口過多となり、人類史上ありえなかった密度で人間が共同生活をしなければならない状態になった。そのなかで、ごく一部の人間が社会の利潤を享受し、その他の大多数のものがさらなる貧困にあえぐ状態となる。この都市部集約社会の典型が18世紀後半のパリであった。この状態に不満を募らせた民衆がバスティーユ襲撃事件をおこし、ついでフランス革命がおこる。
フランス革命期の革命指導者ロベスピエールたちは、この貧困にあえぐ「不幸な人たち」にたいする共感を革命の原動力とした。
彼は仕事もなく日にパンの一切れを家族4人でわけあって食べている。それなのにブルボン家のやつらは贅沢三昧してやがる。ゆるせない。
これが革命の大きなエネルギーであった。このときはじめて、ヒューマニズムが知識・学問からはなれて、「不幸な人たち」を思いやる倫理観と合体した思想となり、今でもわれわれが目にする現在のヒューマニズムのかたちとなった。
しかしこの「共感」を原理とした政治思想は、いっぽうで共感のないものを政治的な敵にしてしまう欠点ももっていた。共感という原理では、共感することを人間のあり方として押しつける排他的価値観となるからである。つまり、共感のないものは、議論すべき相手ではなく、ブルボン王朝のような倒すべき敵とみなすのである。
政治哲学者のハンナ・アーレントはこれを、ロベスピエールに影響をあたえたルソーの『社会契約論』において論じていく。(ハンナ・アーレント『人間の条件』)

この共感を原理とする政治思想は、現代の日本においても有効に機能している。理論的にただしいものよりも、人々は共感をもてるものを優先して政治をおこなう。「○○が気の毒だから」「○○のために」といった同調を基礎とした文脈で語られるヒューマニズムは、ヒューマニズムであるだけ共感のないものには否定しにくい社会的価値となる。この共感のないものは、同調圧力の強力な日本の社会ではすぐさま敵とよばれ弾圧されるのである。いいかえれば、共感を強要することで、どのような政治決断も実行することができるということである。ヒューマニズムの名において共感の枠外を無言でねじ伏せることができる方法を持っているということである。
だから、政治はつねに共感のみを探し続けている。現代日本の言い方に変えれば、「空気」がどう動くかを政治原理としている。われわれの重大な政治的決定が、常に「空気」によって決められているのである。
さらに、その「空気感」や「共感」をうみだすのは、嫌になるぎりぎり手前まで拡大されたヒューマニズムを流しつづけるマスコミである。「ヒューマニズム」と言われれば、われわれは反対するどころか手も足もでないのである。

われわれが「空気をよむ」ことをやめ、共感を強要するヒューマニズムと袂を分かつ方法はないものだろうか。
アーレントは、教養のあるドイツ知識人たちがあっというまにナチスの思想に荷担してしまった過去をみて、こう書いている。
「ヒューマニズムは、ナチズムの防波堤とはなり得なかった」
だからこそ、彼女は『人間の条件』を書いたのだろう。
この暗い時代に、必読の本だと思うのである。


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