ポール・セローと旅するアフリカ縦断 『ダーク・スター・サファリ』他
『ダーク・スター・サファリ』ポール・セロー
ポール・セローのひさびさの日本語訳。それもアフリカ縦断の旅。しかも691ページ。英治出版社の「オン・ザ・ムーブ」シリーズの3冊目。先にブルース・チャトウィン『ソングライン』、ニコラ・ブーヴィエ『世界の使い方』が出ている。シリーズなのにそれぞれ判型が違うというちょっとイキな装幀。
書店に平積みされているのを見て、この分厚さは自分への挑戦に違いないと思い込んで購入。さっそく読み始める。
セローはかつて『中国鉄道大旅行』を読んだ。あの知的な痛快さはまだのこっているだろうか。セローの足跡をたどりながら、日本ではなじみの薄いアフリカとそこで生まれた文学の旅をボクもしてみようと思った。
カイロ
セローの旅はエジプトはカイロからはじまる。スーダンのビザがおりないためカイロに足止めをくらって、セローはナイルを行ったり来たりする。
ある夜、カイロのホテルで作家のナギーブ・マフフーズと出会う。マフフーズは06年に死んでいるから、セローのこの旅はその直前だろう。耳の遠いマフフーズをかこんでカイロの知識人たちが政治談義をしている場面が興味深い。
マフフーズは88年にアラブ世界ではじめてノーベル賞を受賞した。代表作『バイナル・カスライン』はエジプト独立戦争を背景にバイナルカスライン通りに住むアフマド一家の3代にわたる物語。ハサン・イマームによって映画化もされている。
マフフーズと「アフリカ文学」
先日、ジュンク堂の外国文学の棚を見ていると、マフフーズの新刊『張り出し窓の街』が「アジア文学」コーナーに配架されているのを発見した。「マフフーズはアラブ文学だから、アラブ=中東だろう。中東はアジアだからマフフーズはアジア文学になる」そういう発想なのだろうが、マフフーズはエジプト人である。厳密に地域でわけるならマフフーズはアフリカ文学に入れられるべきである。だが、「アフリカ文学」と言ったときのニュアンスと、「アラブ文学」とのニュアンスは違いすぎる。アフリカにも文学にもほとんど興味のない人間が思い浮かべる「アフリカ文学」といえば、アイザック・ディネーセンの『アフリカの日々』(映画『愛と哀しみの果て』の原作)やポール・ボウルズの『シェルタリング・スカイ』などのアフリカを舞台にしただけのものか、エイモス・チュツオーラ『やし酒飲み』のような土着の神話のような混沌として呪術めいたものを想像するだろう。
現に2011年にアフリカ北部でおこった民衆蜂起は「アラブの春」といわれている。「アフリカの春」ではない。アフリカ北部のエジプト、リビア、チュニジア、アルジェリア、モロッコあたりのマグレブは「アフリカ」ではないのだ。
それを裏付ける証拠に、カイロでディナーに招かれたポール・セローがアフリカ縦断という旅のプランを語ると、同席したカイロ在住の白人女性は「アフリカには行ったことないわ」という。向かいにすわっていたアメリカ人男性も「ボクもいったことないな」とこたえる。
「でもここはアフリカでしょう?」セローがそういうと、「ちがうわ。アフリカっていうのは・・・」といってどこか遠くを指さすようなそぶりをしたという。
たしかに、来日したアメリカ人が「これからカンボジアとラオスとミャンマーとバングラディシュとインドをまわる予定なんだ」というのを聞いたら、われわれも「すごなー。ボクもアジアに行ってみたいなぁ」とつい発言してしまうかもしれない。それぐらい、アフリカは広いのである。
スーダン
ようやくスーダンのビザを手にしたセローは、ウサマ・ビン・ラディンの作ったキレイな道「ウサマ・ロード」を通って南下をはじめる。スーダンではもうかれこれ40年間ずっと戦争をしていた。ところが北部の人間は、南部で戦争をしていることをほとんどしらないのである。
そもそもスーダンは19世紀後半のイギリスの大陸縦貫政策(アフリカをカイロからケープタウンまで縦に貫く)と、フランスの大陸横断政策(アフリカ西岸からスーダン、エチオピアを通って紅海に横断するルート)が交差する地点であった。大陸を貫く植民地を確保するということは、地政学的に他のヨーロッパ諸国にたいして強力な牽制が可能であるということだ。そのポイントとなる場所がファショダ村であり、かの歴史的事件「ファショダ事件」のまさに現場なのである。トマス・ピンチョンの長編小説『V.』にも、歴史に関与する謎の女「V」がこのファショダ事件の現場にあらわれる様子が書かれている。
1956年にスーダンは独立するのであるが、北部のイスラーム教、南部のアニミズム的キリスト教とはそもそも宗教も文化も違う。まったく違うものを植民地主義列強が領土分割の都合でひとつのものとするから無理がたたる。アフリカ内戦のほぼすべてはこの問題に端を発しているのである。入れてはいけない反目し合う複数の民族を植民地主義の檻に閉じ込め、ある日とつぜん手を引くからだ。たがいに殺し合いしてきた旧敵同士が、国土というひとつの檻のなかに武器とともにのこされる。昔以上に殺し合いしないわけがない。
だがつい昨年(2011年7月)、スーダン南部は南スーダンとして独立した。南部にだけ石油資源があったとしても、どう考えてもその方がいいにちがいない。
ハラール
スーダンからは、ハルツームを通りエチオピアに入る。セローはかなりの寄り道をしてエチオピア東部のハラールという街に行く。この遠回りはひとえに、パリ文壇の栄光をすててアフリカの武器商人となったアルチュール・ランボーの住みついた街がハラールだからである。ランボーはなにもないこの街で約10年間、商人として暮らす。寡黙なこのファランジ(白人の蔑称)が、まさかパリの文壇を震撼させた「早熟の天才」のデカダン詩人だとは誰も気がつかなかっただろう。ランボーはひたすら自分の過去を隠してハラールで暮らしたと言われている。
ナイロビ
アディスアベバからは陸路でケニアにむかう。車はしょっちゅう故障して立ち往生し、道のりは500キロ以上あるのに路面はでこぼこで時速20キロでしか走れず、ソマリア人のゲリラ盗賊に威嚇発砲され、折れたシャシーを直すためにトラックの荷台で2泊するはめになったりするが、それでもなんとかナイロビに到着する。セローの書くケニアは『アフリカの日々』とも『アフリカに夢見て』とも『キリマンジャロの雪』ともまったく違う。セローは言う。「ヘミングウェイのケニアは現実には存在しなかったのかもしれない」。つまり、彼らはずっとアフリカという幻想だけをみて小説を書いてきたのだ。動物とハンティングへの執着と、ついこの前まで奴隷だった使用人たちへのノスタルジーを満足させる旅行者の一人でしかなかったのだ、と。「そういった本には、犯罪も、政治も、慈善家も描かれていない」。セローは絶望的なほど治安の悪いナイロビを描写したあと、政治犯として投獄された経験をもつジャーナリストにインタビューする。その投獄と拷問の話は、ナイロビの治安よりもずっと絶望的である。
カンパラ
ウガンダの首都カンパラでは33年前に勤務していたマケレレ大学を再訪する。33年前、「常軌を逸した怪物イディ・アミンの台頭の予兆」を察知してポール・セローは慌ただしくウガンダをあとにする。そしてセローは「33年後の、この暑い午後まで戻ってこなかった」のである。
逃げるようにセローがあとにしたウガンダで、その後いったいなにがおこったのだろうか。アミン評価は数々おこなわれているが、わかりやすいのはジャイルズ・フォーデン著『スコットランドの黒い王様』だろうか。2006年にドキュメンタリー作家のケヴィン・マクドナルド監督により『ラストキング・オブ・スコットランド』として映画化もされている。
主人公ニコラスは医師になるまえに旅行にでようと考える。適当に選んだ旅行先ウガンダでは、イディ・アミンがクーデターにより政権を奪取したところであった。アミン大統領と偶然しりあったニコラスは、彼に気に入られ主治医となる。しかしアミンは徐々に独裁主義的な方向に進み、政敵ばかりか国民や身内までも粛正する恐怖政治をおこなうようになる。主治医である自分の立場が非常に危険であると気づいたときには、周囲の大使館員や医師仲間ではもうどうすることもできず、追い詰められたニコラスはアミン殺害を計画するが、それに気づいた大統領は彼を拷問によって殺害しようとする・・・。
原作は未読なのだが、映画においては白人のごく普通の若者を通して非常にわかりやすくアミンの恐怖政治を書き出している。ニコラスは架空の人物だが、大統領の周囲の人々が感じた恐怖はじゅうぶん観客に伝わるだろう。
しかし、アミンが台頭したそもそもの理由であるウガンダの内戦と度重なるクーデターという背景はかかれていない。『ラストキング・オブ・スコットランド』は、植民地政策以降という根深い問題へのやさしい入口だと思った方がいい。その先にはもっと恐ろしい、もっと血塗られた背景がある。ウガンダを正しく知ろうと思うと、隣国ルワンダの歴史も知らなければならない。
ルワンダ
そういった意味では1994年におこったルワンダ紛争を元にした映画『ホテル・ルワンダ』がわかりやすいだろう。一説には国民の20%が虐殺されたというジェノサイドから、1000人以上の難民を守ったホテルマンの話である。
もしこれに興味があるようなら、1950年代から40年間アフリカをルポルタージュしてきたジャーナリスト、リヒャルト・カプシチンスキの『黒檀』のなかの第16章「ルワンダ講義」を読めばいい。解説の池澤夏樹もいうように、ここまでわかりやすく正確にツチ族とフツ族の民族対立を書いたものはあまりないだろう。読めばこのジェノサイドとディアスポラがどれほど根深いかわかると同時に、アフリカの抱える問題の背後には、つねにイギリス、フランス、ベルギーといったヨーロッパ列強諸国の暗く大きな影がさしていることに気づくだろう。
フィリップ・ゴーレイヴィッチ著『ジェノサイドの丘』はさらにもっと深く知りたい人むけだ。こういうことが本当に、この現代に、現実におこっているとは考えられないほどの凄惨な事実がそこには書かれている。しかし、そのことよりももっとわれわれが恐怖せねばならないのは、この民族殲滅というとてつもない悲劇にたいして、われわれの社会はまったく無関心であったし今も無関心でありつづけているということだ。
ヴィクトリア湖
カンパラをあとにして、アフリカで一番おおきく世界でも3番目におおきな湖ヴィクトリア湖を渡り、セローは船でタンザニアに入国する。
船中、コンラッド『闇の奥』に関して発言したりはするが、セローはヴィクトリア湖自体についてはなにも言っていない。
しかしこの湖にもアフリカならではの苦悩が沈んでいるのである。その端的な例が映画『ダーウィンの悪夢』によって描かれている。
かつてヴィクトリア湖は400種以上の生物が生息する「生物多様性の宝庫」といわれていた。しかし食糧難で乱獲された魚類を補てんするため、もともとヴィクトリア湖には生息しない外来種を放流し、それを食料とした。その魚がナイルパーチである。
「淡水の牛」ともいわれる肉食のナイルパーチは、在来種の40%を食い散らして絶滅させ、爆発的に増殖する。しかし劣悪な環境のもとで働く現地人のもとには、高価なナイルパーチはたった一匹さえのこらない。すべては空輸され国外に売られていくからである・・・。
この映画が事実でないことも描いているという指摘があることは知っている。シクリッドという在来種が実は絶滅してはいないということも聞いている。しかし、ナイルパーチが毎日山のように水揚げされ国外輸出されているのは事実だし、その輸入国第2位がこの日本だということも否定しようがない。そしてここがもっとも重要なのだが、ナイルパーチはフィレオフィッシュにするとすごくうまいということも事実である。
ポール・セローはヴィクトリア湖からタンザニア首都のダルエスサラームへむかう。しかしそこから先、彼がどうなったのかはしらない。なぜならボクは今日現在、ヴィクトリア湖上までしかこの『ダーク・スター・サファリ』を読んでいないからだ。
だからセローに付き従ったボクのアフリカ文学の旅もここまでしか書けない。『ダーク・スター・サファリ』読了のあかつきにはこの続きを書こうと思う。セローの旅の最終の地、南アフリカ。ナディーン・ゴーデュマとアパルトヘイトの南アフリカについても。