ファシズムの源流 | 『白いリボン』ハネケ

  • バシェヴィス・シンガー『ユダヤ人の日々の前進』
  • ハネケ『白いリボン』
  • ミルグラム『服従の心理』

ハネケ『白いリボン』

イディッシュ語作家としてはじめてノーベル文学賞を受賞したアメリカ人小説家アイザック・バシェヴィス・シンガーは、20世紀初頭のポーランドにおけるユダヤ人社会の生活、家族、恋愛、宗教、政治、シオニズムなどを事細かにフィクションとして再構築し、『ユダヤ人の日々の前進』という小説を書いた。のちに英訳され『領地』および『財産』として出版されたこれらの小説でバシェヴィス・シンガーがおこなったことは、あきらかにユダヤ文化の再創造であった。読者はこの小説にいきいきと描かれているユダヤ人らの物語が、最終的にナチスによるファシズムの台頭で終わることを知って、再創造そのものの理由を理解する。この小説に書かれたポーランドのユダヤ人らは、その文化、その言語ごと、ほとんどそっくりこの地上から消えてしまったのだ。バシェヴィス・シンガーは、失われたイディッシュ文化を再構築してみせることで、読者がとうぜん知っているであろうあの忌まわしきユダヤ人の歴史的惨劇そのものに一切触れることなく、ホロコーストという容易に扱うことのできない史実を読者に提示してみせたのである。
バシェヴィス・シンガーが採用したこの手法について、ロンドン大学ホロコースト研究所元所長のロバート・イーグルストンはその著書『ホロコーストとポストモダン』において、「出来事のあるはずの場が「自分自身の経験から情報を補充することを読者に」求める補完部となり、出来事そのものには言及されない、というような」ホロコーストフィクションのカテゴリーであると論じている。
受け手に情報の補完を促すようなこの手法で思い出すのは、ミヒャエル・ハネケ監督の映画『白いリボン』(2009)である。
どちらも20世紀初頭の中央ヨーロッパを描きながらも、『ユダヤ人の日々の前進』が消えていった人びと、社会、文化、言語への哀悼であるのに対して、『白いリボン』は、そのユダヤ人の社会を完全に殲滅し得るほどの「悪」の発生現場を再構築しているという悲しい対照をなしている。


『白いリボン』の物語は、1913年7月のドイツ北部のある寒村からはじまる。観客は物語の時制が1913年であると明示されるわけではないが、劇中、唐突にフェルディナンド皇太子が暗殺されたという知らせがこの寒村に舞い込む描写において、この映画の前景を了解する。むしろ、この映画そのものが、サラエボ事件から1945年のナチス崩壊までにドイツがたどった殺戮と狂気の「前景」を再構築することにある。
それはハネケ監督がはじめて採用した二つの技法にもあらわれている。ひとつは白黒フィルム、もうひとつはモノローグである。どちらもこの映画が、語り手である「私」と名乗る村の教師の、記憶の再構築であり、その語り手が現在も健在で、つまり語り手の老人は大量殺戮へと続く二つの世界大戦と長く陰惨な時代の証人としてこの「奇妙な出来事」を語っているということを観客に印象づけることの演出として見ることができる。


作品冒頭、村の唯一の医者がなにものかによって故意にしかけられた針金によって落馬し、馬は死に、医者は重傷を負い別の町に入院することになる。この事件をきっかけにしてこの村には「奇妙な出来事」が次々とおこるようになる。
村の牧師の子クララとマルティンは、落馬した医者の娘アンナを心配しその家を訪ねたことで帰宅が遅れ、牧師の父より鞭打ちののち戒めとして腕に白いリボンを結ばれる。牧師の父が言うには、白いリボンは純潔を意味するという。落馬事件の翌日、納屋の床が抜け落ちる事故によって男爵家の小作人の妻が死ぬ。秋の収穫祭の日、小作人の長男は母の死を恨んで男爵のキャベツ畑を潰滅させてしまう。おなじ日の夜には男爵のひとり息子ジギが森の中で鞭によって暴行された状態で発見される。キャベツ畑の犯人は判明し小作人らの家族は解雇されてしまうが、落馬事件とおなじく暴行の犯人はわからない。たまりかねた男爵の妻はジギを連れてイタリアの実家に帰ってしまう。その後、退院した医者が村にもどってくる。最初のうちは隣家の助産婦との再開をよろこぶが、娘との近親相姦の関係を選び別れ話になる。犯人がわからぬまま冬となり、だれかが窓を開け放したことで家令の家の新生児が死にかける。そんなある日、男爵の納屋が火事になる。翌日、小作人の父は厩で首をつって死んでいる。4月になりイタリアの実家に戻っていた男爵夫人とジギが村に戻ってくる。だが家令の息子らの戯れによって池のなかにジギは突き落とされてしまい、この村と男爵に愛想を尽かした夫人は離婚の話をする。そこへ、皇太子暗殺の報がとどく。語り手の教師は訪ねていった家令の家で、娘のエルナから奇妙な夢の話を聞く。助産婦の知恵遅れの息子カーリが酷い目に遭う夢をみたのだという。開け放たれた窓で新生児の弟が死にかけたときも夢をみたというのだ。エルナの予言どおり、カーリは何者かに連れ去られ、両目をつぶされた状態で発見される。しかし刑事の捜査でも犯人はわからない。そんなある日、教師は助産婦のワグナーに自転車を貸してくれと懇願される。カーリを失明させた犯人がわかったのだという。教師から半ば強引に借り受けた自転車に乗って、ワグナーは隣町の警察に行ってしまう。気になった教師が医者のところに行くと、鍵のかかった病院の玄関には「当分のあいだ休業」と書かれた張り紙があった。助産婦の家にもカーリの姿はなく、そのかわり裏庭には牧師の子どもらがあつまっている。カーリを心配して見にきたのだというクララたちに引っかかるものを感じた教師は、牧師にそのことを伝える。医者が落馬したときも、ジギが行方不明になったときも、そしてカーリが連れ去れたときも、あの子らは被害者の近くにおりかつアリバイがない、と。それを聞いた牧師は激怒する。医者とその娘も、助産婦とカーリも村に戻ってこないまま、7月28日にオーストリアはセルビアに、8月にはドイツがロシアとフランスに宣戦布告し、物語は第一次世界大戦がはじまるというモノローグで終わる。


二つの大戦への前景としてこの村の出来事が描かれたのだとすると、その小さな悪意は大戦を越えて自ずとホロコーストという人類史上もっとも凶悪で不気味な出来事にたどり着く。
現代時制に近い立場の語り手と、2009年にこの映画を見るわれわれは、すでにこの映画に埋め込まれたさまざまなシニフィエを補完する知識を備えている。映画が描く物語と、観客が知っているはずの、つまり人類が乗り越えてきた歴史が相互に補充しあい、第三の意味を持つようになる。
村の子どもらはたぶん10歳前後であると思われる。この年齢から推測されるのは、政権獲得(1933)からオーストリア併合(1938)におけるナチス躍進の暗い時代に、彼/彼女らが30代から40代の社会の中心を担う年齢に達していることである。
物語冒頭、門限を破ったことによって、彼/彼女らは戒めとして白いリボンによって社会的に拘束される。このことが子どもらにとっていかなる意味を持つかは、物語の後半において、今度は学校で騒いだという罪によって再度白いリボンが姉のクララに巻かれた翌日、神父の飼っていた小鳥が鋭利なはさみによって串刺しにされ殺されるシークエンスからも明らかである。きっと「純潔のリボン」は、そのリボンが巻かれた子どもらの皮膚の上に焼け付くような恥辱と痛みを与えただろう。そうして、その痛みは彼らが大人になった時、その色彩を黄色に、形を六芒星に変えて、さんざん戒められた彼ら自身が、こんどは無実のユダヤ人らの胸に黄色い星として取り付けることになるだろう。
リボンは懲罰の印であるが、罰としてもまたそれを生みだした罪としても、ほとんど無意味であることもわれわれ観客は知っている。一度目の白いリボンは、クララとマルティンが級友であるアンナを見舞いに行って遅くなったために、夕食抜きと鞭打ち10回の罰とともに着けられたものである。2度目のクララに宣告された白いリボンは、教室で騒いでいた級友を諫めるために大声をあげたことによる罰である。どちらの罪も、われわれにはそれらの罰が値するようにはみえない。この白いリボンが懲罰のためだけに存在するとは、実のところ父である神父も子どもたちも考えていないのではないだろうか。罰というものは、それを与えるものが見ていないところでは有効に作用しない。最初の鞭打ちのあと、森の中で語り手の教師は、橋の欄干を命がけで歩くマルティンを目撃する。「どうしてそんな危険なことしたんだ」と問う教師に、マルティンは「神様がボクを殺したいのかどうか知りたかった」という。白いリボンが子どもらに及ぼしている影響は、あきらかに罰への恐怖ではない。彼らの存在そのものを有効にも無効にもする、権威の象徴である。それどころかこの村全体が権威のヒエラルキーを形成しており、最末端の子どもらは、目に見えるリボンというかたちでそれを受け入れるしかない。「ミルグラム実験」で有名なイエール大学の社会心理学者スタンレー・ミルグラムは、その著書『服従の心理』でこう書いている。

親が子どもに道徳的な指図に従えと指示するとき、実はかれは二つのことをやっている。まずは、従うべき具体的な倫理的内容を示している。つぎにかれは子どもに権威からの指図が権威からの指図だからというだけで従え、と指示している。だから親が「小さい子をぶっちゃいけません」と言うとき、これは一つの指示ではなく、二つの指示を与えていることになる。最初のものは、その命令の受け手が小さい子どもをどう取り扱うべきか、というもの。そして第二の暗黙の指示は「わたしの言うことをきけ!」というもの。だからわれわれの道徳的理想の発生そのものが、服従的な態度の醸成と分かちがたくなっている。

白いリボンにとって、それが罰であることは「具体的倫理内容」であるかもしれないが、ちょうど神父の小言のように「具体的倫理」が無意味でかつ大量にあるとすれば、ミルグラムの言うように唯一繰り返される「服従命令」こそが「優勢な強さ」を獲得することとなる。
それは根底では「ユダヤ人である」ということだけで縫い付けるようナチスによって強制された黄色い星とおなじである。民族という差異をヒエラルキーに組み込むための、暴力的な権威制度である。今となっては「ユダヤ人は臭い」「ユダヤ人はズルをする」といったヘイトがいかに意味のない虚偽の「具体的倫理内容」であったかは考えなくてもわかる。臭いからユダヤ人を殺害したのではなく、殺害するために彼らが臭いことにしたのだ。
この権威制度は、映画に描かれた村社会という小さな共同体のさまざまな部分にまで巣くっている。どのような社会構造にもヒエラルキーは存在する。しかしこの村の異常さは、その社会的価値がプライベートなものにまで浸食していることである。より具体的に言えば、この村の家族は、すでに制度としてしか機能していないのだ。
ヒエラルキーの頂点に立つ男爵は、妻が泣きながら訴える離婚話よりも、その最中にもたらされた皇太子暗殺事件の一報によりショックを受けたように見える。男爵家の家令は、男爵のひとり息子ジギの笛を取ったというだけでわが息子をなんども殴り蹴りつけさえする。神父の家では長男の自瀆を禁止するために、まるで中世の教会の恐怖統治のような長たらしい回りくどい説教のあとマルティンの両手をベッドに縛りつけて寝るように強制する。そして医者の家では、死んだ妻そっくりに育った娘アンナと近親相姦の関係に陥り、彼は妻亡きあと今まで子どもらと彼自信の面倒を見てきた情婦でもある助産婦のワグナーを口汚くののしることでしか関係を終えることができない。これらの制度としてしか成立しえない家族の関係は、村の頂点に立つ男爵という始点より開始され、最終的にもっとも弱い立場の子どもたちのところで終点をむかえる。権威構造の最末端の子どもらは、そうやって受け続けた循環し得ないストレスの蓄積を、どうにかはき出さなければならない立場に立たされる。子どもらが犯人であったという証拠はこの映画には一切出てこないが、彼/彼女らが底辺で支え続けることを強いられた権威構造は、どのみち彼/彼女らよりも弱いものに向けられるだろう。最初は子どもなりの義憤による妻殺しの医者への鉄ついだったものが、形だけは権威への反抗として行われた幼いジギへの暴力となり、最終的には義憤も反抗さえも失ってしまった、たんなる弱者への暴力として、知恵遅れの少年カーリの両目をえぐり出すという忌まわしい犯罪へと変質していく。彼/彼女らが成長したあかつきには、いったいどのような社会ができあがってしまうのだろうか。それこそが、ナチスの台頭を許し、シナゴーグが焼かれることに反対もできず、ユダヤ人迫害とホロコーストをだれも止められなかった、あのファシズムの社会ができあがる理由であったのだ。
スタンリー・ミルグラムは、ナチス政権下のドイツで、軍人でも親衛隊でもない第101警察予備大隊が信じられないほど残虐なユダヤ人への大量殺戮を行ったことにかんしてこう記述している。

彼らはおおむね、自分のやっていることを間違っているとも非道徳的だとも考えていなかったが、それは殺害が合法的な権威によって是認されていたからだ。

是認しているのはナチスだろうか。教師が目撃したあの村社会は、男爵だけが悪の源流だったのだろうか。男爵の恐怖政治と植民地主義をささえていたのは、村社会の構造そのものだったのではないか。ミルグラムでいう権威構造や「同調圧力」は、だれにでも「道徳のルビコン河」を渡らせる力をもっている。それは、何気ない毎日の姿さえしているのだ。
『白いリボン』でわれわれが見たあの村の息苦しさは、もう復活することはないのだろうか。質問にひとつ間違えるたびに、上昇する電圧に悲鳴を上げて実験中止を懇願する被害者を前に、人がどれだけ「博士」という権威に反抗できるかという残酷な実験(ミルグラム実験)で、致死量に近い450ボルトを流した被験者は、この実験がすべてお芝居で、権威に対する実験だったと聞かされたあと、万が一被害者が死んでしまうという可能性とその責任を問われてこう答えている。

「なぜあなたのせいかっていうと、単純にわたしゃこれをやるために金を払ってもらったからですよ。わたしゃ命令に従わなきゃならなかった。それが道理だと思ったんですよ」

こういった虚弱で無批判な権威構造と息苦しさを拒否するためには、われわれはミルグラム実験においての被害者の叫び声を、権威の声よりも優先する知恵と勇気が必要だろう。だが、多様性を排し、マイノリティが攻撃され、社会はそれを放置し、他者の苦しみを娯楽として消費し、本来それらを糾弾するはずの立場の者が隣人へのヘイトをあおり、弱者がますます虐待され、ひとびとは次々と攻撃対象の獲物を見つけ出そうとやっきになり、嘘と裏切りが恥ずかしげもなく声高にスピーチされ、憎しみと攻撃欲求に支持された者らがその社会構造をますます強固にする。そういった現在のこの国の息苦しさをみるにつけ、ハネケの描いたあの村社会から、われわれはなにひとつ進化していないのではないかという暗い気持ちになってしまう。そうであるなら、またあの狂気と殺戮の時代がかたちをかえてわれわれを飲み込むことになるのではないのだろうか。あの時代をもう一度くりかえし、われわれはもう一度、他者を殺し殺されるのだろうか。残念ながら、それが杞憂であると信じるだけの証拠を、今のこの社会に見いだすことは、ボクにはむつかしい。
だから、『白いリボン』は人ごととして観ることはできなかった。



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