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カウンターカルチャーとオタク文化 「第9地区」DVDで観賞

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オヤジバンドが活況だそうだ。学生のころにやっていたロックミュージックを、管理職についてできたヒマを使って昔の仲間とまた演奏し、飲み屋でライブしたりするそうだ。そのうちオヤジDJも出てくるだろう。 オヤジが野球をやったり釣りをしたりするのを、わざわざ「オヤジ野球」とか「オヤジフィッシング」とは言わない。オヤジがやっても当たり前だからだ。オヤジバンド、ないしはオヤジロックがわざわざ「オヤジ」と頭につけるほど異質に感じるのは、バンド、ひいてはロックがもともと若者のものだったからだろう。若者の文化をオヤジがやるのだから、「ブルーアイドソウル」とか「こどもビール」のような呼び方をしないと別個で異質なものをわけ隔てることができなくなってしまう。「ロック」と「オヤジロック」は「ビール」と「こどもビール」ぐらい違うわけだ。 ロックミュージックとはもともと若者の文化だと言ったが、多少語弊がある。ロックミュージックとはもともとカウンターカルチャーである、ぐらいが正しい言い方だろう。メインカルチャーとしての教養、伝統、規則、習慣、階級、アカデミズムなどに対してのカウンター作用をもった文化活動だったのだから、当然それらの枠組みの外側に立っている学生や若者といったモラトリアム人間にしかそれは実践できないはずで、逆にそれらの枠組みを守る立場の管理職や組織人がロックをするということは、そこに異質なものを感じてしまうのはしかたのないことかもしれない。 ロックがすばらしいのは、文化というものは伝統や格式、歴史やアカデミズムが生み出すものだという常識を一挙に塗り替えたということにも関係する。この功績は100年後にもたたえられるべきだ。だからロックはカウンターカルチャーの王様だったし、実際のところ「社会を変える」ことが可能だった。そしてなによりメインカルチャーに対する反抗という明確な指標があった。 ロックミュージックほど強力なものは少ないが、どんな文化ジャンルにもそのような既存の枠組みに対する反抗から発生するカウンターカルチャーが存在する。かつてマンガはそうだった。俳句や小説の届かないところにまで、人間の業をわからせ、ヒューマニズムを訴え、社会を告発する、といった仕事をこなした。 しかしロックミュージックもマンガも一般に広まるにつれ、人間が歳をとって保守化するようにカウンターカルチャーからメイ

「瞳の奥の秘密」ファン・ホセ・カンパネラ監督 @シネリーブルで。

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シネリーブルで観賞。 あそこは入場までロビーで待たされる。そのロビーをふと見ると、みんな文庫なり単行本なりを取り出して読んでいる。携帯の普及以来、電車ではもう読書している人をさっぱり見かけなくなった。しかしここではほとんどの人が本を読んでいる。こういう景色、ひさしぶりに見たような気がする。モバゲータウンもソーシャルアプリも偽善的な絵文字もない空間。どことも「つながって」いない空間。ずっとここに居たいと思いながら、ボクはiPhoneのi文庫で読書していた。自分でもよくわからない立場にいるような気がした。 元刑事裁判官の主人公ベンハミンは25年前の未解決殺人事件を「庭いじりよりましだから」という理由で小説にしようとし、かつての上司でいまは判事補になっている美しいイレーネに会いにいく。 25年前の事件は、新婚の銀行員モラレスの若い妻リリアナが暴行を受け殺された殺人事件だった。刑事裁判官として現場に駆けつけたベンハミンは、殺されたリリアナの遺体に強烈なショックを受ける。 ほどなく現場近くで工事をしていた作業員が容疑者として逮捕される。しかしそれは拷問による自白を強要したえん罪であった。 捜査をつつけるベンハミンは、モラレスの古いアルバムの中に、異常な目つきでリリアナをみつめる男の写真を発見する。 アル中の同僚パブロとともに、イレーネの古い知人ゴメスの実家に侵入し、母親宛の手紙の束を持ち帰る。 しかしその手紙には住所も具体的な手がかりもなく、そのうえ家宅侵入がばれて捜査は打ち切りになってしまう。 1年後、偶然駅で銀行員モラレスと会ったベンハミンは、彼があのあとずっと駅でゴメスを探し続けていることをしり、捜査再会をイレーネに掛け合う。 しかしゴメスの足取りがつかめず、迷宮入りかと思われていたとき、パブロがあの手紙にかかれた暗号のような文章がすべてサッカーに由来することを突き止め、とうとうサッカースタジアムでゴメスを逮捕する。 しかしその後、服役中にはずのゴメスが大統領のSPとしてテレビに映っているとことをベンハミンはモラレスからの電話で知る。 軍事政権であった当時のアルゼンチンでは、このような超法規的処置がしょっちゅう行われていたそうだ。 ベンハミンとイレーネは、今やゴメスに命を狙われる立場にたってしまう・・・。 骨太でかつ南米流のロマンチックな

「魔王」ミシェル・トゥルニエ(みすず書房)書評

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「魔王」ミシェル・トゥルニエ 何度か偶然が重なると、それになにか意味があるような気になってくる。例えば、朝おきるとヨメ、あるいは母、あるいは夫や父が「これお隣にもらったんだけどドイツの手作りなんだって」といってドイツ製のジャムを持ってきてひとしきりドイツの食品はうまいだのまずいだの話す。会社に行くととなりの同僚が明後日からドイツ出張だといってあわてている。退社後、後輩がいいところだといって連れて行ったくれたのはドイツ風ビアケラーであった。 この男ないし女が車の買い換えを予定していたとする。選択肢はふたつあって、ひとつはVWだかBMWだかのドイツ車、もうひとつはプジョーだかシトロエンだかのフランス車。非常にはげしく葛藤しているその悩みが大きければ大きいほどこの日のこの偶然は彼ないし彼女に大きく影響する。 「そうか、やはりドイツはすぐれた製品を作り出すのだな」とか「やっぱプジョーにしよう」とかなんとか思いながら、普段なら見逃すささいな偶然に突如意味が、直接自分に影響をなげかける意味となる。 あとから考えれば、はじめのころのジャムなどの偶然は、だからつまり「兆し」となる。 車の購入でドイツ車かフランス車かぐらいの葛藤だとしたら重複する偶然もたいした影響はないかもしれない。しかしこれが人生の岐路であるとか報われぬ恋であるとかいう場合だと、その偶然が与える影響も複雑でより強力なものとなる。「兆し」が持つ意味も当然、形而上学的になっていく。 「魔王」の主人公は「偶然」はじまった「奇妙な戦争」によって幼児わいせつのえん罪から釈放される。戦場では鳩を飼い、馬で鹿狩りをし、ドイツ的な観念に惹きつけられ、軍事学校でスカウトマンをし、敗戦をむかえる。 読書を終え、主人公のたどった戦争の体験を思い返せば、この「魔王」という本の中には偶然につらなる「兆し」が山のように含まれていることに気づく。こども、担ぎ、鳩、鹿、馬、狩り、男根、ドイツ、ヒットラーユーゲント、近眼、学校と、それこそ多数の兆しが豊富に用意されており、読む人はその兆しを読み取って哲学的な解釈をしてみたり読み損ねてあとから気づいたりして楽しむことができる。 そのためには第一部でややガマンして主人公ティフォージュの手記を読まないといけないような仕掛けになっている。そこに山のような兆しが盛り込まれており、それはまる

「終着駅 トルストイ最後の旅」

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シネマポップで観賞。なんか偶然わりびきの日だったみたいで、1000円。ラッキー。 まだ明るい館内でお客さんを眺め回すと、ほとんどぜんぶおじいさん。そうか、そういうことか。ボクも歳とって仕事がなくなったら、こうなるのだろうな。年金なんてもっと少なくなってるから、大切に映画を鑑賞するんだろうな。割引券とか招待状とか集めたりして。 ということは学生のときと一緒じゃないか。いかにして金をつかわず多くの名作にめぐりあえるか、毎日がチャレンジだった。あのころは大毎劇場やヴェリテ、アクトシネマテーク、国名小劇、テアトルなんかが行き着けだったな。第七芸術劇場もシネリーブルもまだなかったころだ。 ま、そういうのはどうでもいいのだが、上映する映画によって観客の質や層、階級も民度も大違いする。そこを見るのもたいへんおもしろいことだ。 トルストイの妻ソフィアがトルストイの思想やその行動にたいして理解がなかったことは知っていたが、「世界三大悪妻」という言い方はしらなかった。ちなみにのこり二人はソクラテスの妻クサンチッペとモーツアルトの妻コンスタンツェだそうだ。 彼女らの妻としての行動や言動が、才能ある亭主にどのような影響を与えたかは分析のしようがない。その影響が悪影響だったのか好影響だったのかさえ、推測してみるしかない。「もしナポレオンがモスクワに入城していたら」とか「ヒットラーが絵描きになっていたら」とかの「もしも遊び」として表現するぐらいしか過去の歴史を捉えることができない。 いやいや、歴史どころか今の自分だってこの妻(夫)と結婚してなかったらどうなっていたか、わかる人なんていないはずだ。 藤子・F・不二雄のマンガで「分岐点」という短編がある。凄まじい夫婦げんかに嫌気をさした主人公のサラリーマンは、霧に覆われた公園に住む怪しいホームレスの手引きで人生をやり直す。かつて些細な理由でわかれた美しい彼女との、もうひとつの可能性に人生をまるごと鞍替えしてしまう。しかしもうひとつの現実は、もともとの現実よりもさらに「現実的」なシニックで覆われている。よくもないし、なにもかわらない。 もうひとつの現実にむかって霧のなかを歩いていく主人公を、もとの世界に住む子供が泣きながら呼び止める。「パパ、パパ、どうしてぼくをおいていくの?」 歴史の「もしも」遊びは酒の席の遊びですむが、自分自

映画の機能と表層 「赤い影」をこれまたDVDで。

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自動車は非常に高額である。新車だろうと中古車だろうと、普通は車のように絶対的に高額な買い物をする場合はそうとうの緊張感をもって適切で間違いのない買い物をしようとする。 そんな究極的な選択を迫られると、人は自分の持ついろんな側面から無意識のうちに優先事項を決定して行く。哲学者のサルトルは、葛藤がはじまった時点でその人の回答はあらかじめ決められている、というようなことを言っていた。さんざん悩んでも、凡庸な人間は凡庸な車を選ぶ。 数年前に生まれて初めて新車を買ってしまった。その時気がついたのだが、どうやらボクの車に対する優先事項はその外観にあるようだ。その車を形作る「サーフェース」としての直線なり曲面なりに評価基準があった。要は、かっこよければなんでもいいのだ。 ただし、ここが重要なのだが、ただしその車がもつ内部の機能が外側にあらわれた表層においてのみ、外観を重要事項としてみることができる、という条件がつく。建築でいうと、ルイス・サリバンのいう「Form Follows Function」のことになるのだろう。 なにげなく現代を生きている人は、ほとんどすべて実のところモダニズム信奉者だ。だからサリバンのアフォリズムは、おおかたの人が納得する内容だろうし、装飾のための装飾を好む現代人は少ないと思う。機能のない出っぱりや見せかけだけの空力を尊ぶ人はすくないだろうし、三菱のGTOみたいに穴の空いていないエアインテークの造形にたいして、笑う人はいても賞賛する人はほとんどいないだろう。 「赤い影」をDVDで鑑賞。「わが心のボルチモア」と同じくツタヤの「発掘良品」シリーズの中の1本。 赤色のくりかえされるイメージが美しく、スパイスにもなっている。 また、ベネチアのかきかたがいい! きれいすぎず、汚すぎず、不気味に、かつ儚く絶妙のポイントで描写していく。こんなかんじで大阪を撮ったらどうなるのだろう。それでもやっぱりブラックレインみたいになってしまうのだろうか。 恐怖や回想の描写も当時としては適度に実験的で、いま見ても過剰にかんじることはない。 なによりそれらを総合的にまとめあげている耽美的な溢れ出すイメージがどんどん先行して、むしろ物語がそのあとを追うような状態である。 だからそこがこの映画の「モダニズム」でないところなのだ。 イメージ、それを仮にここで「表層

ツタヤの矜恃とカットの苦しみ 「わが心のボルチモア」をDVDで観賞。

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ツタヤの新企画「発掘良品」シリーズの中の1本。ツタヤはこういう企画をもっとすべきだ。リコメンドや口コミなどの横の広がりが伝播しにくい店舗型サービスでは、この手の企画は顧客の信頼を高め、リピートを産み、利益率をおしあげる・・・。と、軽薄なマーケティングコンサルみたいなこと言いましたが、この企画はほんとによい。 そもそもツタヤには「文化を扱って商売をしている」という気概がまったく感じられない。大きなパイをどこよりも大きな地引き網で引き上げようと、つねにスケールで勝負している。 これだけのビジネススケールになった以上、それは基本的にしかたのないことだ。いまさらツタヤに街の古本屋みたいに店主の趣向で品揃えを変えろとか、ビレッジバンガードみたいにターゲットを絞った提案をしろとかいうのではない。 ただ扱う商品が「映画」や「音楽」という文化なのに対して、その「文化産業」に属しているという雰囲気がまったく感じられない。大型といえども紀伊国屋やジュンク堂、丸善などの書店には感じられる「文化を扱う誇り」のようなものがまったくない。社名をみるに、あえて消し去った結果の成功だとも、たしかに思う。 しかし、その業界内でナンバーワンの立場になったものはつぎに何をしなければいけないのか。それは文化産業に限らず言えることだ。つまり、自身が属する文化圏の裾野を広げることだ。映画なら映画文化を広げ、音楽なら音楽ファンを増やし、車なら自動車文化を広め、ワインなら特定の銘柄にこだわらずにワインそのものの魅力をアピールすることだ。 最近元気がない、というかかつてほど人口に膾炙されないが、例えばスターバックスコーヒーはこれでもかというほど「コーヒー文化圏」というものを押し広げようとし、消費者はみなその「文化」の部分に150円おおく支払って満足していた。「To Go」はオシャレだったし、スリーブをつけたスタバの紙コップをもって出社するのはどこか知的なかんじがした。コーヒーを扱う以上、そのコーヒーがかかえる文化ともども広がっていかなければ、最終的なパイのサイズは大きくなりはしない。 ツタヤに欠落しているのはそこだ。映画を手軽に楽しめることで、圧倒的な数のコンビニエンス映画ファンを作り上げた功績はすばらしいが、こうして王者になったいますべきなのは、その文化産業の裾野を、店舗数以外の部分でも広げるべきだ。

舞台劇と映画劇 「デス トラップ(死の罠)」をDVDで。ネタバレ

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シドニー・ルメットの「デス トラップ」をDVDで観賞。しかしDVDを見て「映画を観た」というのは語彙的にも映画ファン倫理的にも間違っている気がする。ただしくは「かつて映画だったものをDVDというメディアで再構築してみた」ぐらいじゃないだろうか。 かつて「音楽を聴くときは部屋を暗くして黙想しながらでないと正しく視聴できない」と言う極端なひとがいた。その感覚で言うとDVDは「映画でない」のだろう。 当時はボクも若くてその言葉にふむふむとか思っていたが、今おもえば例えばジャック・ジョンソンとかスカタライツとかもそうした方がいいのだろうか。クラシックならわからないでもないが、パンクもそうすべきなのだろうか。レゲエも暗くした方がいいのか。ジャンルによるのだろうか。うどんを食べるのに作法も探求もないが、そばには多くの乗り越えるべき障害があり、みな求道者のような顔でざるやせいろをすすっている。そんな違いだろうか。そのあたりもよく聞いておけばよかった。 とにかくDVDで「映画を観た」というのは間違っているが、うどんみたいな映画ならややかまわないのだろう。うどんはおいしければよいのだ。 先日、子供をつれて「仮面ライダーW FOREVER AtoZ/運命のガイアメモリ 同時上映 天装戦隊ゴセイジャー エピック on the Movie」という長い名前の映画をトーホーシネプレックスでみた。わざわざ出かけて1800円払ってスクリーンでみたわけだが、DVDで十分だった。10メートルスクリーンとドルビーサラウンドの意味がほとんどなかった。 メディアもいろいろ、映画もいろいろ、ってわけか。 で、デス トラップ。 4度連続して不人気劇を書いてしまった劇作家ブリュールは、テレビでの酷評に耐えきれず泥酔し帰宅する。オールドイングランド郊外のすさまじくいい家は奥さんの金からでたものだ。 窮地に立つブリュールは、かつての教え子クリフォードが送ってきたスリラー劇作品のできのよさに驚き、クリフォードを殺してこの作品を自分のものにしようと計画する。 必死に止めようとする妻をなだめたりすかしたりして、クリフォードが知人もなく、作品を誰にも見せておらず、コピーさえとっていないことを聞き出し、殺人を実行しようと言葉巧みに小道具の手錠をはめてしまう・・・。 シドニー・ルメットは「十二人の怒れる男

「シャッターアイランド」DVDで見ました。(ネタバレ)

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巨匠マーチンスコセッシ監督の、日本公開では「ディパーテッド」以来のフィクション映画ということで、かねてからボクの「見るリスト」入りしていた作品。しかも「謎解き」。これはマストでしょう、と思いつつ、DVDで観賞開始。 はじまって1分。船上の描写がおかしい。ひと昔まえの特撮映画のように、船と海の合成がなんかメタメタ。「はて、これは一体・・・」と思いつつ監督名を確認する。たしかに「マーティン・スコセッシ」とある。なにかの間違いだろうと思い直し、主人公のディカプリオが島に上陸し、夢を見るまで普通に見る。 すると、夢の描写がなんかヘン。よく言うと「豊穣なイメージ」なんだろうが、飛び散るA4の紙切れがやたらと目立つ。死んだ奥さん(ミッシェル・ウィリアムズ)の台詞も、夢の舞台であるマンションも、その向こうに見える湖畔の風景も、やたらと目立って、とってつけたようだ。 これは真面目やってこうなってしまったのか、それともあえてこうしているのか、まったくわからない。 しかも夢の描写のカラフルさと、基本的にグレーな島の画の対比が、あきらかに失敗してちぐはぐな印象になってしまっている気がする。 不思議に思いつつ先をつづける。 映画に対する不信感が決定的になったのは、2度目の夢の描写と、夢 in 夢の2段夢オチをなんのひねりもなくここまで素直に描いてしまっているのを見てからだ。 そこからは不信感があら探しになってしまう。 立ち入りを禁じられているC棟に入っていくシーン。なんの緊張感もなく、妖しい雰囲気も、それを演出するための雨漏りや鉄柵それ自体がぶちこわしている。 強度の精神病者が収容されている檻へ主人公を引き込もうとする患者たちも、なんだかデュランデュランのPVにでてくるダンサーみたいだ。 ナチスの強制収容所の描写も軽すぎる。 なかでも相棒を救おうと断崖をおりるシーン、長いわりにドキドキするわけでもなく、かといって落っこちた相棒だと思ったのが人間の形みたいな岩だったから、収拾もつかない。同じだらだらさでまた登って行く。またそれを追うカメラ。しかもディカプリオが「はあはあ」と息切れしているのがなんかつらい。 ラストの「衝撃」は、見た人のたぶん半分ぐらいは途中で、やばいのはディカプリオじゃないの? と気づいていたと思う。しかしそれは問題ではない。はじまって30分で気