追悼テオ・アンゲロプロス 『旅芸人の記録』『狩人』『エレニの旅』

鏡の前にたち、まず最初に自分の右目に注目する。つぎに左目に注目する。これをすばやく5、6回くりかえす。くりかえしどちらの目に注目してみても、自分はなにも動いていないように思えるはずである。まして眼球はうごいていないようにみえる。 ところがこの行為を横から観察している人には、鏡をのぞき込む者の眼球が激しく動いているのがみえる。 あるいは自分の手元をみているとき、声をかけられて振りむくとする。真後ろにたつ知り合いの顔まで首と眼球を移動させるのに1秒ちかくかかったとしても、その1秒間の「あいだ」の映像はほとんどまったく記憶にものこらないし映像にさえならない。手元と、知り合いの顔のふたつが隙間なくならぶ映像だけが脳にのこるのである。 つまり人間の脳は、移動の影響でぼやけてみえる視覚情報を切り落とし、意味のある映像だけをのこす、という処理を常にしているのである。このことについて映画編集者のウォルター・マーチは「脳の視覚野がコンスタントに知覚したものを編集している」と表現している。(マイケル・オンダーチェ『映画もまた編集である』) この脳の処理能力のおかげで、だからわれわれは映画をみてその筋や意味についていくことができる。爆発する車の映像のあとに、吹き飛ばされて転げ落ちる主人公をみてその両方を接続させる意味を瞬時に人間は発見する。その間の眼球の動きが知覚する映像はもともと脳がリダクションしているものだから、擬似的な知覚映像においてもその編集はすんなりと脳がうけいれるのである。 それがわかっているから、映像作家たちは脳の処理の限界まで意味をつめこむ。つまりカットをおおくすることで、おなじひとつの尺によりおおくの意味を入れようとするのである。 その最たるものが日本固有の15秒CMである。世界的に流通している30秒の半分しかないから、おのずとひとつひとつのカットがみじかくなる。なかにはストーリーのオチに0.5秒さえかけないCMもある。0.5秒以下のカットで人間が認識できるのは、映像のごく中心にあるものだけだ。カメラの中心にいる登場人物の表情が笑っているのか泣いているのか程度の認識でオチがつく(つまりストーリーが完結する)ぐらいの簡単明瞭なものしか、だから15秒では表現できない。ここまでみじかい尺によりおおくの意味をつめこみ、それを目の回るような早さでカ...