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東北とは、東北復興とはなにか? 赤坂憲雄『東北学』柳田国男『雪国の春』

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青森県の下北半島を旅すると、夏でも寂寞としたその風景にぞっとすることがある。そこはわれわれの見なれた日本の風景ではない、どこか異界めいた違和感をあたえる「田舎」なのである。この違和感がなにかずっと気になっていたが、赤坂憲雄の『東北学』を読んで気がついた。下北にはわれわれ日本人がみなれた水田がないのである。平地や山間といったあるべき場所に水田がないだけで、風景がとつじょ異界じみて見えてくるほどにわれわれ日本人は稲作文化にどっぷりとつかっている。だからおなじ日本であるのに、水田のない下北半島は「異界」であり、「寂寞」とした親しみのないものになってしまう。 それぐらい、稲作文化は日本人の意識形成や価値観に影響をあたえ、いまや稲作のない日本や日本人は考えることさえできない状態にさえなっている。「日本人とは米である」と言ったってだれも反対する人はいないだろう。 そういう「米の国」を根柢でささえるのが、日本の穀倉とも言える東北地方である。「東北」ときいて最初に思い出すのが「米、水田、稲作」という人もおおかろう。 柳田国男が『雪国の春』で書いたのもそのような稲作文化圏の東北である。軒先まで雪に埋もれる東北だからこそ、その雪解けをよろこぶ風習のひとつひとつに稲作文化、つまり「瑞穂の国」の「常民」の姿がある、と書いたのだ。 赤坂憲雄は自著『東北学』において柳田民俗学のこの「常民思想」を批判的に展開するのである。柳田が言うように、ほんとうに日本は「瑞穂の国」という観念で統一的に論じることのできる土地だったのだろうか。 そもそも東北の別名「みちのく」は、畿内からみて海道と山道のつきる果ての「道の奥」という意味である。古代ヤマト朝廷の覇権の及ばぬところという意味である。 中央集権体制に移行しつつあった畿内ヤマト朝廷は、律令制が制定された7世紀頃からすでにこの「みちのく」へおおくの兵をおくっている。そのころの東北は「まつろわぬ民」であり、「蝦夷(えみし)」の国であり、完全に外国であった。 平安初期になると桓武天皇が3度、蝦夷征討をしており、かの坂上田村麻呂が征夷大将軍となって胆沢(現在の奥州市)のアテルイをようやく平定する。アテルイにかんする書物は『続日本紀』ぐらいしか記録がのこっていないようだが、寡兵で大伴弟麻呂を破るなどそうとうな蝦夷の武将であ

アートと政治性 『アイ・ウェイウェイは語る』

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安土桃山時代の名連歌師でもあり政治的有力者でもあった里村紹巴は1567年、40才のころ富士山をみるために旅にでた。 歌人としても政治家としても頂点にのぼりつめていた紹巴はどの土地でも盛大な歓待をうけ、土地の歌人や貴族、武将たちと連歌を詠んだ。そのことを、彼は自身の旅日記『富士見日記』に記している。 紹巴が尾張に投宿した晩のことだった。異変に気がついて目覚めてみると、西の空がまるで昼間のように光り明るかったという。彼は書いている。 「夜半過ぎ西を見れば、長島追落され、放火の光り夥しく、白日の如くなれば、起出で」 (ドナルド・キーン『百代の過客』) 紹巴が見たのは、現代でいうところのいわゆる「長島一向一揆」の戦乱の光である。「追落され」空が昼間のように明るかったという記述を考えると、信長が長島周辺の村をことごとく焼き討ちした「尾張長島焼き討ち事件」のことだろう。 しかし驚くべきはこのあとにつづく紹巴の和歌である。 たび枕ゆめぢ頼むに秋の夜の 月にあかさん松風のさと 燃えているのが無実の村人の住む村であったという認識は紹巴にはなかったかもしれない。あるいは紹巴は内心、本願寺を嫌っていたかもしれない。しかしすぐそばでいくつもの村が燃え、おおくの村人や門徒が死んでいることぐらい紹巴でなくても想像できるだろう。そのような状況で紹巴は、一向一揆にも本願寺にも焼き討ちにも、まして人の命の問題さえ完全に無視して、月夜の美しい旅枕を和歌にするのである。 もし現代、例えば大江健三郎が講演旅行中の岩手県で東北大震災に遭遇して、帰京後に燃えさかる宮古市を完全に無視して浄土ヶ浜の美しさを褒めたたえるエッセーかなにかを発表したら、彼の作家生命はそこで終わってしまうだろう。現代では、現実を無視して美を追究することはできないのである。 最近みすず書房から刊行されたアイ・ウェイウェイのインタビュー集『アイ・ウェイウェイは語る』(ハンス・ウルリッヒ・オブリスト著)を読んだ。 彼の現代アートがどれぐらいのものかは、美術オンチのボクにはわからない。しかしなぜ彼がアーティストとしても建築家としても最近ではアクティビストとしてもこれほどまでに重要視されているか、の理解の一助にはなった。 「ブログこそ21世紀の『社会彫刻』だ」という

水津さんとスーヴェニール・ハンター 『百代の過客』

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いまから10年ほど前、インド最北部ジャンムーカシミール州のさらに北東部、旧ラダック藩王国の首都レーという(日本からみると)ものすごく辺鄙な土地のさらに辺鄙な郊外の、まるで豚小屋のようなレストランでトゥクパ(チベット風すいとん)を食べているときのことだった。「ここのトゥクパおいしいですね」と、とつぜん日本語で話しかけられた。 いまでもそうだが、当時インドはパキスタンと核開発競争をしており、両国が領有権を主張しあうカシミール州への外国人立ち入りはこのラダック地方をのぞいて一切禁じられていた。カシミール州の最東部の、パキスタンとの停戦ラインまであと10数キロというところにあるダー村まで四駆にゆられていったときは、1日で10ヶ所以上の軍事検問があり、インダス川沿いには無数の軍事施設がみえた。うまれてはじめて至近距離で本物のM16だかなんだかの自動小銃をみたのも、その銃口がこちらをむいているという体験をしたのもこのラダック地方である。写真を撮ったらカメラを壊されるから、と現地のガイドに注意もされた。 そもそもレーという街は平地で3600メートル以上の標高があり、富士山の山頂より高いところの街なのである。暗いゲストハウスでろうそくを灯すと、炎がまるで小さく弱々しい。空気が薄く沸点が低いので、沸騰したお湯で煎れたはずのコーヒーがちっとも熱くない。ほんの数段の階段に息切れする。北部には世界一高所をはしる自動車道があり、南部のザンスカールは世界一辺鄙といっても過言ではないような、まるで月面のような死の世界が広がっている。そんな街である。 そこでとつぜん日本語で話しかけられたのである。見るとインドによくいるサドゥー(ヒンドゥー教修行者)である。白いヒゲもじゃで顔はわからないが、黒く汚い手足にボロボロの格好に杖、腰からぶら下げた水筒、まるでサドゥーにしかみえない。ビックリして話を聞くと日本人だという。「大阪の堺ですねん」ともいう。年を聞いてさらにビックリした。なんと80才だという。それからそのトゥクパ屋で1時間以上話し込んでしまった。話し込んだというより、水津と名のるそのサドゥーみたいなおじいさんの話を聞き込んでしまったのである。 聞けば定年退職後、年金でバックパッカーをしているという。少ない年金でも、外国なら日本の何倍もの贅沢ができてむしろ貯金もできてしまう。寝