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「慰めの幻想」が歴史を書き換える | 『溺れるものと救われるもの』

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『溺れるものと救われるもの』プリーモ・レーヴィ 『ホロコーストの音楽』シルリ・ギルバート 『生きつづける』ルート・クリューガー イタリアの作家プリーモ・レーヴィには、ナチスの強制収容所内で友情を培ったアルベルト・Dという若い友人がいた。アルベルトとレーヴィは、極限の収容所内でいつも行動をともにし、組織化(配給以外の食事を調達すること)された食事はすべて分けあい、6ヶ月間寝床をともにし、他の被収容者はこの二人の名前を時折取り違えて呼ぶほどだった。 レーヴィがアルベルト・Dを尊敬していたのは、強制収容所内でも曇らぬその聡明さだった。多くの被収容者が陥る「慰めの幻想」を一切信じていないところに彼の強さと批判精神にもとづく聡明さがあらわれていた。多くの被収容者はつねに楽観的な噂話をしていた。「戦争はあと2週間で終わる」「ポーランドのパルチザンが進軍している」「ガス室への選別はもうおこなわれない」といった根拠のない「慰めの幻想」である。だがアルベルトは、いつも裏切られ失望することで終わるこれらの噂や流言を信じず、ふたりはその幻想のなかに逃げ込むことを拒否していた。 アルベルトには同時に連行されてきた父がいた。ポーランド撤退の近い1944年10月の最後の大選別(労働できるものとガス室送りのものを選別する)で、アルベルト・Dの45歳になる父はガス室送りとなった。すると、アルベルトは数時間のうちに彼の意見を変えてこういうのであった。 「ロシア軍が接近しているのでナチスはもう虐殺はおこなわない。今回の選別はガス室送りにはならない。軽い病気のものは、ヤボルノ特別収容所で軽労働させるために輸送しているのだ」 その後、彼の父の姿をみたものはなく、アルベルト・Dも1945年ソ連軍侵攻から撤退するいわゆる「死の行進」の直前に、チフスで倒れたレーヴィの病棟に禁令をおかして別れのあいさつにきた姿が最後のものとなった。 奇跡的に生還できたレーヴィは、イタリアに帰国するとすぐにアルベルト・Dの家を訪ねる。すると彼の母は、アルベルトと同じ「慰めの幻想」のなかで耐えがたい真実を拒否して生きていた。礼儀正しくあたたかく迎えられたレーヴィが、アルベルトの最後の姿を話そうとすると、彼女はいそいでそれを遮り、どうか話題をかえてあなたがどうして生き残れたのか

ファシズムの源流 | 『白いリボン』ハネケ

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バシェヴィス・シンガー『ユダヤ人の日々の前進』 ハネケ『白いリボン』 ミルグラム『服従の心理』 イディッシュ語作家としてはじめてノーベル文学賞を受賞したアメリカ人小説家アイザック・バシェヴィス・シンガーは、20世紀初頭のポーランドにおけるユダヤ人社会の生活、家族、恋愛、宗教、政治、シオニズムなどを事細かにフィクションとして再構築し、『ユダヤ人の日々の前進』という小説を書いた。のちに英訳され『領地』および『財産』として出版されたこれらの小説でバシェヴィス・シンガーがおこなったことは、あきらかにユダヤ文化の再創造であった。読者はこの小説にいきいきと描かれているユダヤ人らの物語が、最終的にナチスによるファシズムの台頭で終わることを知って、再創造そのものの理由を理解する。この小説に書かれたポーランドのユダヤ人らは、その文化、その言語ごと、ほとんどそっくりこの地上から消えてしまったのだ。バシェヴィス・シンガーは、失われたイディッシュ文化を再構築してみせることで、読者がとうぜん知っているであろうあの忌まわしきユダヤ人の歴史的惨劇そのものに一切触れることなく、ホロコーストという容易に扱うことのできない史実を読者に提示してみせたのである。 バシェヴィス・シンガーが採用したこの手法について、ロンドン大学ホロコースト研究所元所長のロバート・イーグルストンはその著書『ホロコーストとポストモダン』において、「出来事のあるはずの場が「自分自身の経験から情報を補充することを読者に」求める補完部となり、出来事そのものには言及されない、というような」ホロコーストフィクションのカテゴリーであると論じている。 受け手に情報の補完を促すようなこの手法で思い出すのは、ミヒャエル・ハネケ監督の映画『白いリボン』(2009)である。 どちらも20世紀初頭の中央ヨーロッパを描きながらも、『ユダヤ人の日々の前進』が消えていった人びと、社会、文化、言語への哀悼であるのに対して、『白いリボン』は、そのユダヤ人の社会を完全に殲滅し得るほどの「悪」の発生現場を再構築しているという悲しい対照をなしている。 『白いリボン』の物語は、1913年7月のドイツ北部のある寒村からはじまる。観客は物語の時制が1913年であると明示されるわけではないが、劇中、唐突にフェルディナンド皇太子が暗殺され