特定秘密保護法はミロス島民を殺すだろう。


紀元前5世紀、アテナイの大軍がミロス島に侵攻したとき、アテネ人は中立の立場をとるミロスの代表者をよんでこう言った。
「圧倒的軍事力を誇るわれわれには、あなたがたを皆殺しにすることは簡単だ。だがもしあなた方自身が、自分たちを殺すことがわれわれアテナイにとって不利益となるのだと証明できるのであれば、ミロス島の民は生き残るだろう」
それからアテネ人は付け加えた。
「ただし、正義とか正当性といった合理的でない言葉を使ってはいけない。そのような利益とは関係のない言葉は、両者の力が拮抗している場合にのみ使えるものだ。圧倒的強者と弱者のあいだでは、強者がいかに大をなしえ、弱者はいかに小なる努力においてこれを脱しえるかしかないのだ」
ミロスの代表者は答える。
「人が死地に陥ったときに正義はどうしても必要となるだろう。たとえその正義や正当性が強者からみて不完全であったとしても、そのときそれらは必ずや互いの益となるのだ」
そうして戦争がはじまった。アテナイの言うとおりミロスは戦争に敗れ、兵士は全員処刑され、女と子どもはすべて奴隷にされてしまった。

このアテナイの興隆と衰亡を、紀元前の歴史家トゥキュディデスは『戦史』の中にことこまかく書きのこしており、ラケダイモン(スパルタ)との戦争中に起こったこのミロスの全滅の物語もそのなかに記されている。
それから時代が下って、ミロスほど「正義」や「正当性」への信念を持ち合わせていない「弱小国家」の為政者たちは、強国の「利益」となることを選択し、植民地主義の時代が到来する。

だがいくら時代が利益至上主義になろうと、末端の兵士や国民は、戦争という国家の一大事業をつねに「戦争の大儀」や「正義の戦い」といった文脈でとらえている。それは、そのような「合理的でない」意味でしか国民が戦争という自らの命をもかける国家事業に参加しないからである。
われわれは、実際的な「国家的利益」を秘められた目的とし、「利益」の前では無力であったはずの「正義」を原動力に戦争をおこなうのである。それがポストコロニアリズムと覇権主義の定式化した方法論である。
言い換えるならそれは、「正義」や「正当性」はいくらでも捏造することができるが、「国家的利益」は合理性の上にしか成立しないという、本来的な目的と結果の「ねじれ」である。

アテナイがそのようななりふりかまわぬ利益至上主義によってミロスに侵攻できたのは、「圧倒的軍事力」の差が両者にあったからである。事実アテナイは「そのような利益とは関係のない言葉は、両者の力が拮抗している場合にのみ使えるものだ」と言っている。
国際的意味においても、国内的意味においても、このある一方のみが「圧倒的」であることを禁じるために、民主制が機能してきた。憲法が国民主権を謳い、国際法が覇権主義を牽制してきたのである。それはある意味、虚弱な考え方ではあるが、自分が「圧倒的強者」の側につけなかった場合への恐怖がそうさせてきた。自分よりも邪悪な為政者が次に政権をとったとき、自分たちはいったいどうなるのだろうかという恐怖である。
だから、権力の拮抗している状態、あるいは政権交代の可能性の高い国家においては、一方の利益のみが追求されることも少ないし、政治的正当性が蔑ろにされることも少ない。

ミロスの代表者が言ったのはそのことである。「死地」とは権力の終焉のことである。国家的利益といった価値よりももっとずっと長期的視点を話したのである。
「人が死地に陥ったときに正義はどうしても必要となるだろう。たとえその正義や正当性が強者からみて不完全であったとしても、そのときそれらは必ずや互いの益となるのだ」
ミロスとアテナイはまったく異なった次元で話をしていたのだ。だからミロスの全滅は避けようがなかったろう。



来週にも特定秘密保護法が衆院通過するという。
現行法で対処できる事案を、どうしてこのような強権的な新法にたよらなければならないのか。国民主権と、憲法第21条を侵害する可能性と引き替えにするほどの理由とはなんなのか。「戦争の大儀」とおなじく、真の「利益」がなんであるのかは伏せられたまま、「安全保障」という名の漠然とした敵愾心によって恣意的に法律がかわっていく。
この新しい法律が敵対者にわたることが、そしてそれが自分よりもさらに邪悪であるという可能性が、安倍政権は怖くはないのだろうか。きっと怖くはないだろう。それほど返り咲いた自民党は「圧倒的」な強者であるという自信があるからだ。
ボクには、その「圧倒的」であることの自信こそがもっとも恐ろしく感じられるのである。なぜならその自信こそが、正当性を踏みにじり、ミロスの民を皆殺しにできた理由であるからだ。




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