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アナクロニズムと文化衝突

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1492年10月12日にコロンブスが西インド諸島のサン・サルバドル島に、ヨーロッパ世界の人間として歴史上はじめて上陸したとき、古くからその地に暮らしていたアラクワ族のインディアンはこう言い合った。 「みろ! この新大陸にクリストファー・コロンブスがやってきたぞ。とうとう我々は『発見』されたのだ」 15世紀のアラクワ族がコロンブスの名を知っているはずもないし、新大陸という名称さえ知るはずもなく、まして自分たちが「発見」されたのだという認識などあろうはずもない。だからこの発言は歴史を書く上で完全な間違いということになる。 これほど極端ではなくとも、こういった時代考証の間違い、時代や歴史の混在をアナクロニズム(時代錯誤)と言う。 卑近な例でいうとテレビドラマの時代劇などでこのアナクロニズムはよく散見される。 江戸時代が舞台の時代劇で町娘が侍に言う。 「お侍さん、オッケーです!」 オッケーという英語を町娘が話したはずもないが、似たようなミスは多い。 「あっしは彼女を愛していました」というセリフは、英語の対訳として明治期に産まれた「彼女」や「愛」といった単語が存在していなかったはずの江戸時代人が話せば、厳密に言うと時代考証のミスということになるだろう。 そもそもルソーもヴォルテールも知るはずのない江戸時代人が、つねに社会契約説を信じたヒューマニズムの原理によって個人主義的な愛や精神、友情、平等といった主題を信奉している場面やプロットが、テレビドラマでは多く見られる。時代考証を優先するなら、そんなフランス革命期に勃興したヒューマニズムや政治思想を持つ江戸時代人なんかいるはずもなかったろうし、いても一発で縛り首だろう。 だが、テレビドラマや娯楽映画の時代考証は、その正確性よりもストーリーの大意を伝える「わかりやすさ」を重要視しているため、多少の錯誤は許容されるようである。 テレビや娯楽映画は、そういったアナクロニズムを敢えて犯すかわりに、大多数の視聴者の納得と視聴率や興行収入を引き替えにしているのだから、そこに目くじらを立てるのは野暮というものだろう。 アナクロニズムはなにも現代のテレビプログラムだけが犯してしまう錯誤ではない。かのシェークスピアは、彼の偉大な戯曲『ジュリアス・シーザー』の中で決定的なミスを犯し