投稿

1月, 2012の投稿を表示しています

追悼テオ・アンゲロプロス 『旅芸人の記録』『狩人』『エレニの旅』

イメージ
鏡の前にたち、まず最初に自分の右目に注目する。つぎに左目に注目する。これをすばやく5、6回くりかえす。くりかえしどちらの目に注目してみても、自分はなにも動いていないように思えるはずである。まして眼球はうごいていないようにみえる。 ところがこの行為を横から観察している人には、鏡をのぞき込む者の眼球が激しく動いているのがみえる。 あるいは自分の手元をみているとき、声をかけられて振りむくとする。真後ろにたつ知り合いの顔まで首と眼球を移動させるのに1秒ちかくかかったとしても、その1秒間の「あいだ」の映像はほとんどまったく記憶にものこらないし映像にさえならない。手元と、知り合いの顔のふたつが隙間なくならぶ映像だけが脳にのこるのである。 つまり人間の脳は、移動の影響でぼやけてみえる視覚情報を切り落とし、意味のある映像だけをのこす、という処理を常にしているのである。このことについて映画編集者のウォルター・マーチは「脳の視覚野がコンスタントに知覚したものを編集している」と表現している。(マイケル・オンダーチェ『映画もまた編集である』) この脳の処理能力のおかげで、だからわれわれは映画をみてその筋や意味についていくことができる。爆発する車の映像のあとに、吹き飛ばされて転げ落ちる主人公をみてその両方を接続させる意味を瞬時に人間は発見する。その間の眼球の動きが知覚する映像はもともと脳がリダクションしているものだから、擬似的な知覚映像においてもその編集はすんなりと脳がうけいれるのである。 それがわかっているから、映像作家たちは脳の処理の限界まで意味をつめこむ。つまりカットをおおくすることで、おなじひとつの尺によりおおくの意味を入れようとするのである。 その最たるものが日本固有の15秒CMである。世界的に流通している30秒の半分しかないから、おのずとひとつひとつのカットがみじかくなる。なかにはストーリーのオチに0.5秒さえかけないCMもある。0.5秒以下のカットで人間が認識できるのは、映像のごく中心にあるものだけだ。カメラの中心にいる登場人物の表情が笑っているのか泣いているのか程度の認識でオチがつく(つまりストーリーが完結する)ぐらいの簡単明瞭なものしか、だから15秒では表現できない。ここまでみじかい尺によりおおくの意味をつめこみ、それを目の回るような早さでカ

ルソー、グーグル、ジェダイ 『スターウォーズ』『一般意志2.0』『社会契約論』

イメージ
ジョージ・ルーカスのSF映画『スターウォーズエピソード2』のなかで、のちの銀河帝国皇帝であるパルパティーン議長に帝国主義的思想の影響をうけつつあったアナキン・スカイウォーカーは、恋人パドメとの甘いデートの最中、権力と力による統治の夢をかたる。それを聞いたナブー星議員でもあるパドメは驚愕して叫ぶ「本気なのアナキン?」。このくだりはパドメがアナキンの発言を冗談だとかってにミスリードして決着するが、恋人の発言が多少独裁主義的だからといって、目を見開き眉間にシワをよせて恋人の失言を責めるほどのことであるのだろうか、という疑問がのこる。 ボクはなにもSF映画の娯楽ファンタジー作品に、重箱の隅をつつくようなリアリズムのツッコミいれたいのではない。スターウォーズというSF大作が根底に据えている、人々の(なかにはエイリアンの)揺るぎない大義への矛盾が、はからずもわれわれ21世紀にいきる現代人の抱える矛盾の巧妙な鏡像のようにみえるからである。いわくそれは、どちらも民主主義そのものの矛盾であり、崩壊の予兆でもあるのだ。 長い『スターウォーズ』シリーズのなかでも後半に作られた3作「エピソード1、2、3」はいわばジェダイ騎士団の大敗の物語である。と同時にジェダイが死守しようとする議会制民主主義の敗北の物語である。 そもそもその物語のはじまりから銀河連邦議会はただしく機能していないようにみえる。独立国(星)であるはずのナブーにある日とつぜん交易権拡大のために通商連合、つまり資本家による売買の利潤のみを追求する現代でいうヘッジファンドのような組織が侵略してくる。主権を侵されたナブーは代表団を銀河連邦議会に派遣しナブーの窮状を訴えるが、議長は官僚のいいなりの傀儡政権であり議員たちも自己と地元の利益を優先するばかりでことはいっこうにすすまない。後のダークシディアスであるパルパティーン議員は、議長不信任案を可決させたあとナブーへの同情票を集めてみずからが銀河連邦議長となり権力奪取をはかる。そもそもナブー問題は不信任案を可決させ議長に信任するための手立てでしかなかったのだから、事件はそれでもいっこうに解決しない。健全に機能していない議会に見切りをつけ、ナブー代表団はみずからのちからで通商連合と戦う道をえらぶ。 そこにからむのがジェダイである。ジェダイは銀河連邦議会から切り

イデオロギーによるリンチ殺人 山本直樹『レッド』・ドストエフスキー『悪霊』・山城むつみ『ドストエフスキー』

イメージ
1969 年末から 70 年 2 月にかけて、「山岳ベース」とよばれる山中の「アジト」に潜伏した連合赤軍の中核組織「革命左派」の若者ら 30 名は、「総括」とよばれる他者批判と自己批判運動による「思想点検」から発展した暴力行為によって、アジトこもる 30 名中の 12 名を集団リンチによって殺害した。その前年の東大安田講堂陥落いらい国民の支持を喪失したこれらの新左翼は、強硬姿勢を強めた警察の検挙もあってますます過激で硬直した組織へと坂道を転げ落ちるように転落し、ついには社会改革とは似ても似つかぬテロリストとなり、おたがいを殺しあうようになってしまったのだ。 その殺害方法がまたおぞましい。生きたまま縛りつけアイスピックを突き刺したうえで厳冬の屋外に放置する、食事を与えずロープでつるしたまま何日にもわたって殴打される。なかには妊婦を殺害後、腹部を開いてその胎児をとりだそうとさえしたものもあったらしい。俗に言う「山岳ベース事件」である。 そのなかのさらに先鋭化した 5 人が群馬県側に逃げ、軽井沢の浅間山荘に人質をとって立てこもった。これが「あさま山荘事件」である。 その過激すぎる思想、殺害の残忍さ、殺人の動機がイデオロギーであったこと、また彼らのほとんどが高学歴の優秀な大学生であったこと、また浅間山荘での立てこもり事件がテレビによって大々的に生中継されたはじめての報道であったことなどから、日本犯罪史上類を見ない事件といわれている。 だからこの事件をテーマにした文学作品や映画がおおくつくられている。軽い気持ちで引き受けられるようなテーマではないので、どの作品も質的に相当重いものばかりである。 もっとも有名なのは立松和平の『光の雨』だろうか。もはや老人となった、山岳ベース事件に関与したもと連合赤軍メンバーの語る記憶、というスタイルで物語がすすむ。 最近では雑誌「イブニング」に連載中(2012年1月現在)の山本直樹のマンガ『レッド』がある。物語の端々に最終的な悲劇を彷彿とさせる描写(殺される順番に登場人物に番号が振ってある、副題が 1969 ~ 1972 など)があるが、全体的に感じるのは、異常な思想の極悪犯罪者を描くのではなく、まるで学生の群像劇のように描写する山本直樹一流のその「クールさ」である。 映画で特筆すべきは熊切和嘉の『