投稿

6月, 2011の投稿を表示しています

信頼できない語り手 『このページを読む者に永遠の呪いあれ』『蜘蛛女のキス』ほか

イメージ
ウンベルト・エーコの長編小説『薔薇の名前』の主人公バスカヴィルのウィリアムは、中世の閉鎖的な修道院でおこったおぞましい殺人事件を解くために、あらゆる手がかりをもとに犯人を探し当てようとする。ウィリアムは当初、殺人の方法と使われた凶器により、この殺人事件が旧約聖書の七つの大罪を模した犯行であると推理する。その推理の果てにたどり着いた、入室を禁じられた迷宮のような図書室でウィリアムはみごと真犯人と対峙することになる。 しかしウィリアムは、最初に推理した七つの大罪が自分の推理ミスであったことを真犯人に告白する。真犯人の方でもウィリアムが間違えた推理をしていることをしっており、その間違えた推理をさらにミスリードするためにウィリアムの打ちたてた仮説にのっとった犯行をしようと企てる。しかしミスがミスをよび、両者は最終的におなじ目的地にたどり着いてしまうのである。 『読んでいない本について堂々と語る方法』の著者ピエール・バイヤールは、そのなかで「一度間違えをおかした探偵の言うことが、二度目には絶対正しいといいきれるだろうか」と言っている。つまり探偵役のウィリアムはいまでも間違えた推理をしたままかもしれないし、真犯人の告白はもっと大事な秘密を隠蔽するための便宜上の肯定なのかもしれないのである。 ウンベルト・エーコのこの小説にはそう考えさせるだけの振り幅があるという結論でもいいのだが、そもそもウィリアムが間違えた道をたどって偶然に真犯人のもとにたどり着くというプロセスをわざわざ入れ込んでいるのには、エーコの技法上のたくらみをかんじる。 それがなんのたくらみかというと、一定の流れで終了してしまうような単純な構造から、物語そのものを救い出すためであると思われる。古典的なミステリー文学の体裁をとりながらも、通常であれば絶対的善で間違えをおかすことのない理性的な主人公に、決定的な亀裂をあたえることでこの物語は不完全なものとなる。ボルヘス的にいうと、円環をなす物語となっていく。主人公で探偵役でもあるウィリアムが根本において間違えていたのであれば、あの時のあの推理は正しかったのか、あの場面での描写はほんとうに正しく描写されていたのだろうか、ウィリアムが断定したあの台詞はいいかげんなものであったのではないか。つぎつぎとうかぶ疑問は、われわれをけっきょく再読へと誘う。さらにエーコは、ウィリア

メタ推理小説 『哲学者の密室』『虚無への供物』

イメージ
うどん好きは、週に10食とかただひたすらうどんを喰うのに専念するのに対して、蕎麦ずきは喰う量は少ないくせにやたらと文句をいいたがる。割合は二八がいいとか十割が最高とか、薬味はどこどこのワサビにしろとか、つゆには半分しかつけたらいけないとか7割までつけろとか、そば湯をつかうのは最初だとか最後だとか、噛むなとか噛めとか、挙げ句の果てには蕎麦を入れる器にまでいちいち好みを言い立ててやたらとうるさい。おなじ麺類だが、うどんと蕎麦ではこうも好きになる人種がちがうのかといつもビックリする。さらに言うと、うまいうどん屋は流行り、店もおおくなり全国にひろがるのに対して、うまい蕎麦屋はつねに1店舗だけである。どんなにうまくてもフランチャイズしている蕎麦屋の蕎麦を「うまい」とは絶対にいいたくない、蕎麦ファンにはそんな捻れた心理があるようだ。 蕎麦とおなじぐらいボクも推理小説が好きで比較的よく読むのだが、推理小説ファンには蕎麦ファンに通じる「頑固さ」「めんどくささ」があるように思う。 いわく、推理小説には他のジャンルには存在しない「流儀」というものがある。その最たるものが推理小説作家でもあるヴァン・ダインの「推理小説20則」である。 「20則」では犯人に設定してよい人物の職業、探偵役の人数、事件解決方法、プロットの立て方、やってはいけないトリックなど、推理小説にかんするさまざまな禁則が語られている。なかには「推理小説は犯人を正義の庭に引き出すことであり、男女を結婚の祭壇につれてくることではない」と、推理小説内でロマンスを語ることを禁じる内容さえあり、読んでいると頑固じじいの遺産相続にかんする遺書かなにかのような印象さえもってしまう。もし「蕎麦ずき20則」みたいなものがあれば、きっとこうなっていたろう。 かといって、じゃあ推理小説ずきの読者はそういう風潮に辟易しているかというと、そうでもない。あんがい嬉々として20則的な「頑固さ」を受け入れている。 他の小説ジャンルにくらべると、推理小説には「作者対読者」の構造が目に見えて顕著である。作者は読者をだまし「あ、そうか!」と言わしめるのを仕事とし、読者は作者の意図を先読みして「犯人が読めた!」と言いたいがため貴重な時間とお金をかけて読書にはげむ。だから推理小説にはつねに対決の緊張感があり、その緊張感に興奮をおぼえるようにな

ボルヘスの夜 『七つの夜』

イメージ
アルゼンチンの作家ホルヘ・ルイス・ボルヘスが死んで、昨日(6月14日)でちょうど25年だそうだ。はるか昔の文学者というイメージなのだが、実は死後たった25年しかたっていないというのはビックリである。 それにあわせたわけでもないだろうが、岩波文庫から『七つの夜』が出版された。ちょうど命日の昨日、紀伊国屋書店に買いに行った。 1977年、77才のボルヘスが7つのテーマを7夜にわたっておこなった講義の内容が収められている。「神曲」「悪夢」「千一夜物語」「仏教」「詩について」「カバラ」「盲目について」の7つのテーマの講義録である。 ボルヘスは「数分で語りつくせる着想を五百ページにわたって展開するのは、労のみ多くて功少ない狂気の沙汰である」といって詩と短編小説しか執筆しなかった。ボルヘスの書くどの作品も小説というよりはまるで評論かエッセーのような読み口で、しかしつかうときの隠喩はまるでシュールレアリズムのごとく幻想的で切れ味がよかった。 しかしなによりボルヘスの魅力は、その驚異的なテクストの読解にあると考える。ボルヘスがカフカを語るのを読んだとき、おなじ作品を読んでこうまで解釈の幅に隔たりがあるのはいったいどうしたことだろう、と愕然となる。ボルヘスの書くカフカ論は、むしろカフカを読むという読書体験よりももっとずっと高度な文学的創造ではないのかと考えさえする。 「Musician's Musician」という言葉は、プロのミュージシャンが聞くミュージシャンのことである。一般受けはしないが、プロからは絶賛される音楽のことである。ボルヘスはそういう傾向がある。世界中の小説家や文学者が、文学の示唆をもとめてボルヘスを読むのである。 ボルヘスは偉大だが、高校の教科書に掲載すべきだとはちっともおもわない。多少ともボルヘス的な文学的読解力をつけてからの楽しみにとっておくべきである。でなければ、読解というものが読者の自由裁量であるという大前提に達するまえに、自分の読解を嘆き、質の悪いボルヘスもどきのコピーとなるだろう。当時アルゼンチンではボルヘスそっくりの作家が大量にうまれたそうだが、そのなかでこんにち生きながらえているものはいないのである。ボルヘスがユニークすぎたし、彼の創造したジャンルで活動できる文学者はやはりボルヘスしかいなかったのである。 当時、ボルヘスに読まれることに緊張

人間の叡知を疑う 『AKIRA』大友克洋

イメージ
大友克洋のマンガ『AKIRA』は、人類の破壊と再生とエントロピーの物語だ、と思う。その循環はまるでヒンドゥー教の三神一体のようだと常々おもっていた。創造の神ブラフマー、維持と繁栄の神ヴィシュヌ、破壊の神シヴァによる三神一体の世界観が、『AKIRA』の描く頂点まで登りつめエントロピーを極めた近未来社会の繁栄と、その繁栄を根底から覆すまったく新しい人類の能力、そしてその能力の発揮による崩壊と再生にみごとに一致するからだ。気の遠くなるほど長い年月をかけた生命の循環が、ひとりの神のような少年のすがたで象徴される物語である、とそうとらえて楽しんだりしていた。星がうまれ、成長し、やがて老いて超新星爆発をおこし、その爆発からまた新しい星がうまれる、といった壮大なものがたりのようでもある。 そうであるなら、永遠にうまれかわる循環とひきかえに、われわれは崩壊をめざして成長するしかないのかもしれない。『AKIRA』が描く爛熟と混乱をきわめ欲望だけが力となる近未来の風景が、われわれのこの現実の日常とひどく似ていることを考えると、人類再生直前にあるはずのカタストロフも地続きであるかもしれないのだ。 『AKIRA』での主要登場人物のひとりであるアミーの大佐は、「アキラくんが目覚める」というキヨコの予言をおそれ、「完全な秩序」のなかでアキラを眠らせている、オリンピックスタジアム地下に埋設された0.005ケルビンの超低温冷凍装置の視察にいく。 それはまるで巨大な人工知能のようでもあり、宇宙船のようでもあり、原子力発電所の原子炉のようでもある。大佐はその巨大な装置を前に、博士につぶやく。 見てみろ・・・ この慌てぶりを・・・ 恐いのだ・・・ 恐くてたまらずに覆い隠したのだ・・・ 恥も尊厳も忘れ・・・ 築き上げてきた文明も科学もかなぐり捨てて ・・・ 自ら開けた恐怖の穴を慌てて塞いだのだ・・・ それはまるで、かつてはチェルノブイリのことを語っているようにも思えたし、いまではフクシマを指しているようにも読める。 進歩は人類の幸福への鍵であり、人々は時代を経るごとに恵まれた生活をおくるようになる、と考える人はおおい。しかし人類の叡知とは、そういうものだろうか。 叡知も情報の集積であるなら、発展すればするほどわれわれはエントロピーの法則にしたがい無秩序な世界にむかのうではないのか。発展の先には、われわ

原発のことは今、話したくないのだけど・・・

イメージ
原発がトレンドのようである。とうぜんかもしれないが、世界中の関心があつまっている。 生来へそ曲がりなので、いまさら原発反対とみなが言いだしてもテンションが凹むだけである。どうしてそれをもっとはやく言わなかったのか。どうしてもっとはやくそれに気がつかなかったのか。と忸怩たる気分である。誤解をおそれずに言うと、むしろ東京電力などのインフラ会社や原子力保安委員会などの組織に対して、かつていかなる危機感も、いかなる警戒心もなかった者たちこそ、今、声高に東電を非難しているような気がする。信じていたからこそ裏切られたときの怒りは大きい、という理論である。信じていない人は意外とあっさりこういうだろう。「ほらみてみろ」と。 だから、原発にたいして今なにか意見をいうのはすごくためらってしまう。ためらってしまうのだが、しかしこんなにもいい映画が続けざまにかかると、いわずにはおれないのである。にわか原発評論ブームの影響で日の目をみた映画数本と、思い出す名画をすこし。 『100000年後の安全』マイケル・マドセン監督 前倒し上映だそうである。本来なら渋谷アップリンクで1、2週間上映されて終わっていたはずの映画である。地方の人間はその存在すらしらなかっただろう。それが全国48カ所で上映が決まったそうである。48倍である。トレンドとは恐ろしいものだ。 フィンランドのオルキルオトに建設中の最新鋭の核廃棄物最終処理場を取材したドキュメンタリー。核物質はその絞り滓でさえ10万年以上放射能を出し続ける。自分のした糞の始末を自分でつけられないヤツにもこまったものだが、その糞を捨てるトイレもない部屋で大食らいする計画のどこがエコロジーなのか。そもそもボクは「エコロジー」という語が大嫌いである。こんなにも気持ちの悪いキャッチコピーはみたことがない。CO2を減らしたいのか、石油依存から脱却したいのか、清貧生活をおくりたいのか、その真意がまったくみえてこない。われわれの生活スタイルが、イデオロギー対立とネオコン思想が多量に注入されたエコロジーである必要はない。われわれが目指すべきはサスティナブルである。無限に循環できることを目指すべきである。明日底をつくかもしれない石油に依存し、崩壊を前提とした投機が経済をささえ、捨てる場所さえない危険きわまりない廃棄物を大量にうみだす原子力をエコロジーととらえる、そん