異常な愛とナチズム 『愛の嵐』『アーレントとハイデガー』


1957年のウィーン、主人公マックスが夜勤のポーター係として働く「オペルホテル」という二流のホテルに、ある日高名なオペラ指揮者の夫婦が訪れる。偶然にも、マックスと、指揮者の妻ルチアは20年も前の古い知り合いだった。しかも、男はナチのゲットーで権力を揮う親衛隊員として、女はその収容所の倒錯した性のユダヤ人奴隷として。ふたりの封印したはずの記憶がよみがえる。しかも悪いことにルチアの夫は急遽フランクフルトにもどらなくてはならなくなる。親衛隊残党の秘密組織の一員であるマックスは、一人になったルチアの真っ暗な部屋に合鍵で忍び込み、「なぜここにきたのだ」とルチアを殴りつける。悲鳴をあげ、真っ暗な部屋を逃げ惑うルチア。しかし暴力が契機となり、閉じ込めていたはずのふたりの情念は爆発してしまい、ふたりは強制収容所でおこなった過酷で退廃的な性の魅力におぼれ、狂ったけもののようにお互いを求める。ルチアはホテルを引き払い、マックスのアパートで二人は焼けつくような情事を重ねる。それはまるで死ぬ以外に終わり方をしらない情念のようだ。
一方、オペルホテルを隠れ蓑にしているナチ残党は、密告をおそれてルチアを暗殺することにする。それを知ったマックスは、仕事もやめ、ルチアとともにアパートに立てこもる。しかし電気も水道もとめられ、食料も底をつきた二人は、20年前とおなじ親衛隊の服と収容所時代のワンピースを着て、暗殺を狙うナチ残党やナチ狩りの刑事らが追跡するなか、ドナウ川の橋をわたっていくのであった・・・。
リリアーナ・カヴァーニ監督のこの『愛の嵐』が描く倒錯した性のあまりの過激さとデカダンさに、ローマ法王は上映中止を申請したという。逆にルキーノ・ヴィスコンティはこの映画を「もっとも退廃的な愛を描いた」と絶賛した。
なかでも、ルチア役のシャーロット・ランプリングが、半裸に親衛隊の軍帽とサスペンダーで踊る強制収容所の酒保のシーンはみごとである。あきらかに「サロメ」を思わせるデカダンな雰囲気に、ユダヤ人少女の冷たい無表情な顔がかえってエロい。禁じられているはずなのに、ここで「エロさ」を感じるのはナチ親衛隊と一緒じゃないかと思いながらも、あまりにデカダンで、さらにタブーだからこそ、観客はゴクッと固唾をのむことになる。この酒保のシーンでタブーの愛と性欲をゴクッと感じたからこそ、後半において全てを捨ててまで情念と破滅を選ぶふたりが理解できるようになっている。
結論めいたことを言うが、男と女の関係は理性ではない。死へつきすすむ倒錯した愛であろうと、もっともタブーであるはずのナチズムと被害者のユダヤ人という関係であろうと、男と女は求め合ってしまうことだってあるのだ。

ナチスの強制収容所を生き延びたユダヤ人作家エリ・ウィーゼルは、この『愛の嵐』を、『ソフィーの選択』やテレビドラマシリーズの『ホロコースト』と同じく「死者を裏切ったり、生存者を辱める作品」だと糾弾している。たしかにこの映画では、ナチスの強制収容所は異常な愛の、ひとつの背景でしかない。ウィーゼルが糾弾するのは、ホロコーストという歴史を安易に描写してしまうことで、人類がいちども体験したことのない恐怖であったはずの事実が、どこにでもある悪のひとつになりさがってしまうことに対する危惧であるのだろう。どのような悲劇でも、描写し、表現するごとに、われわれの集団的で組織的な記憶は陳腐化していく。情報を世界に広めるためには、事実は凡庸化され、視聴者や読者が理解できるレベルにまで標準化される必要があるのだ。たしかに「アウシュビッツ」という言葉はもはや陳腐化しており、キャッチコピー化され、言葉の流通としてだれもが理解できる範囲にまで意味が狭められているのは事実だ。
しかし、ホロコーストというとてつもない恐怖が引き起こしたわれわれの歴史の、その末端では強制収容所がひとつの背景となって、一人の凡庸な男女の人生が狂っていくことことだってあっただろう。その男女の狂ってしまった異常で倒錯した性愛を描く作家だっているだろう。ナチスを題材とするすべての映画がアラン・レネの『夜と霧』のようである必要が、ほんとうにあるのだろうか。
この問題は、扱おうとする題材に対する態度の問題でもあり、マスメディアという全ての人間をカバーしなければならない情報伝達方法が、ホロコーストというあまりに特異な事件に対応できないという問題でもあり、また、われわれ視聴者/読者が、ホロコーストという事実の全容を知る知的能力も想像力も勇気もあまりないという問題でもあるのだ。


ユダヤ系ドイツ人哲学者ハンナ・アーレントの著書『イェルサレムのアイヒマン』は、ホロコースト計画の中心的実行者アドルフ・アイヒマンの、イスラエルでの裁判記録である。
アイヒマンは、終戦のナチス崩壊後、アルゼンチンのブエノスアイレスへ密かに亡命していたところをイスラエルのモサドに逮捕され、エルサレムで死刑判決を受ける。いかにヨーロッパ中からユダヤ人が連行されたか、いかなる方法で彼らが殺されていったのかが、裁判記録のなかであきらかにされていく。
しかし、アーレントがもっとも重要視したのは、被告のアイヒマンが悪の権化といった人物ではなく、職務に忠実で、生真面目、組織を重んじ、上司に従う、家族を愛するごくふつうのありふれた「小心な男」だった事実である。
異常な状況の下でマックスとルチアが狂った愛にとらわれてしまったように、異常な状況を作り出す側さえも異常な状況に絡め取られていることを、アーレントのレポートは語っている。

ハンナ・アーレントは、『イェルサレムのアイヒマン』によっておなじユダヤ人社会から強烈なバッシングを受けることになる。アルゼンチンの国家主権を無視してモサドがアイヒマンを極秘裏に逮捕しイスラエルに送還したこと、第三者のイスラエルがドイツの軍人を裁く権利を有していないこと、そもそもシオニズムの中心地でおこなわれたこの裁判が公正であったという確証がないこと、というアーレントの疑問や、さらにはこのレポートの中心的論題でもある、アイヒマンが「ごく普通の人間」であったという主張が、右派シオニストたちの「ナチスを擁護している」と抗議する理由となった。
その一方でアーレントは、ナチス国家社会主義労働党へ加盟し、フライブルグ大学学長の就任演説でナチスへの民族主義的な支持表明までおこなったハイデガーを戦後ずっと弁護しつづけ、彼のナチスへの荷担を実際よりも少なく評価しようと奔走した。
それは、ハイデガーがアーレントの師であり、彼女が20世紀を代表する政治哲学者として主著『全体主義の起源』を書くまでに成長するきっかけと哲学的示唆をあたえた「教授」であったからだけではない。1924年に18才のアーレントがマールブルク大学に入学した直後から、アーレントとハイデガーは不倫関係にあったからである。ただ、それだけでは理解できない部分もアーレントの行動にはある。戦後ドイツにおいて17年ぶりにハイデガーと再会したアーレントは、非難の渦中にある彼が自己弁護をする甘言を、いとも簡単に信じてしまう。そのときにはもはや世界を変える影響力さえもつ政治哲学者であったアーレントだったが、ハイデガーの前ではまるで小さな女子大生にもどってしまったような感さえあった。
男がナチス党員であり、厳格なゲルマン的男性像を理想としまたそのように実践していること、その反面愛欲にたいするロマンチックな情熱をもっていること、そして戦後においてもナチス荷担への謝罪を拒否していること、これらが『愛の嵐』のマックスとハイデガーの共通項である。一方、女はルチアもアーレントもユダヤ人であること、ルチアにおいては不明だが、それでもユダヤ社会で思春期おくった少女に共通する、どこか精神病理的な自己認識の不安定さを持ち、ナチスによる迫害を受け、戦後は新しい社会で新しい人生を送っていたのに、敵であるはずのナチス加担者の男への愛が20年たっても消えていないこと、などが共通する。程度の差こそあれ、ルチアもアーレントも、無関係なわれわれから見るとその行動はよく理解できない。『愛の嵐』がそう描き出しているように、つねに愛は不気味で、不条理なものなのかもしれない。


といったことを、近頃復刊したみすず書房の『アーレントとハイデガー』(E・エティンガー著)を読みながら考えた。
死んだ人間ののこした手紙や、まして愛人に送った恋文までひっぱりだしてその罪や思想をあれこれいうのは下世話であり、それが20世紀を代表するふたりの大哲学者にかんすることであったとしても、それはやはり「ゴシップ」でしかないと、ボクは思う。
しかし、エティンガーが選んだ題材のふたりには、ナチズムを中心に展開する「現実の」哲学者の欲望と私欲と苦悩と裏切りと愛がある。ゴシップとしりつつ、それでも男と女の不可解な関係をしりたいという気持ちにあらがえない。哲学という「仕事」と自分の人生とが完全に密接した大知識人の愛のすがたをしりたいと、下世話としりつつ思ってしまう。
それはまるで、『愛の嵐』のありえないはずの男女の愛と情事が、より現実的なすがたで実際におこったようなものだからである。
ユダヤ人でもある著者は、ナチスに荷担したハイデガーに対しての批判はどうしても厳しくなってしまうようだ。しかしボクは思うのだ。どんな男女であっても、そのふたりの残した手紙などをもとにその関係を再構築してみると、きっとそれはたぶん、どれもこれも「異常」であり「不条理」にかんじられ、「倒錯」した「変態」であり、愛し合えば愛し合うほど「けもののような情事」と見えるのではないだろうか、と。



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