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読んだことのない本を批評する方法2冊 『世界文学を読めば何が変わる?』『読んでいない本について堂々と語る方法』

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「屈辱」というの名のゲームをごぞんじだろうか。数人が酒の席などでやるゲームである。その数人は、できれば教養が高く、かつそのレベルが同じ程度がのぞましい。その方がゲームがおもしろくなる。 ゲームのルールは簡単である。順番に、読んでいて当たり前だと思われる本で、実は自分が読んでいないものを告白するのである。他の人間が読んでいれば、その人の数だけポイントがもらえる。自分以外が全員読んでいれば満点である。ポイントがたまると、賭けた金がいただける。金のためにどれだけ自分の教養のなさを告白できるか、というゲームである。 先に告白するが、ボクは『レ・ミゼラブル』も『戦争と平和』も『神曲』も『失楽園』も『オデュッセイア』も『ファウスト』も『パルムの僧院』も『ガリバー旅行記』も『魔の山』も『嵐が丘』も『ゴリオ爺さん』も『ウージェニーグランデ』も『源氏物語』も『吾輩は猫である』も読んでいない。毎年夏になると書店にならぶ「新潮文庫の100冊」みたいな企画で、読んだことのある本はつねに2,3冊である。 だから「屈辱」というゲームではボクは強いだろう。「『源氏物語』って開いたことすらない」といってみなから金をせしめることができる。みんなは唖然として「マジ?」と言うだろう。ボクは「この嘘つきどもめ。厭々とった『日本文学古典Ⅰ』の授業でみただけのくせに!」と思うのだが。 ヘンリー・ヒッチングズは自著『世界文学を読めば何が変わる?』のなかで、デイヴィッド・ロッジが『交換教授』のなかで考えたというこのゲームを紹介している。後述するピエール・バイヤールの本を多分に意識した内容で、本は最後まで読むべきか、読んでいない本について会話をするときどこまで嘘を通せばよいか、少ない知識で大学の面接をいかにクリアするか、といったことが軽快で現代的な文体で書かれている。が、そういった読書と非読書の楽しい話は第1章にかぎったもので、第2章からは結局、ジェイン・オースティン、ホメロス、シェークスピア、プルーストといった名著をどちらかといえばごく普通に評していく。読後、この作者はすごく本が好きで読書が好きなんだな、と思う。この手の非読書をテーマにした本で、作者の本への愛が見えてしまうのは、ある意味失敗である。特にヒッチングズが意識したバイヤールの『読んでいない本について堂々と語る方法』があくまでも非読書の立場に立

最近見た映画の連続寸評

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TOHOシネプレックスが4月から1500円に値下げだそうだ。いっそ1000円にして映画文化をいっきょに花開かせてもらいたいぐらい。 以下、最近見た映画の寸評、連続で。 『ソーシャルネットワーク』 デビッド・フィンチャー監督 5億人の会員を誇るフェースブック創始者マーク・ザッカーバーグの虚実まじった伝記映画。フェースブック創立の裏側も楽しかったが、いわゆる「ハーバード・コネクション」なるものの内実を垣間見れたのが大きな副産物。日本の大学生と桁が違う、と思った。宮台真司はフィンチャーを評して「道徳から遠く離れた」人だという。フィンチャー監督作品をみて思うのは、道徳もそうだが、あらゆる価値判断を下さない冷徹なスタンスだ。押しつけと感情操作が映画の仕事だと思っている作品の多いなかで、フィンチャーのこのスタンスに引きつけられる人は多い。また『ゾディアック』でやや大味のした編集が、すっきりとした万人向けのものになっている。トレント・レズナーのサントラか、監督か、あるいは主演か助演でアカデミーを取る、と予言しておく。トレーラーでつかわれたスカラ・アンド・コラシニ・ブラザーズのCreepもステキだったが。 『コレラの時代の愛』 マイク・ニューウェル監督 ガブリエル・ガルシア・マルケス原作の同名長編小説の映画化。はっきり言って、なぜ今マルケスで、なぜ『コレラの時代の愛』なのかわからなかった。もっとわからないのがマイク・ニューウェル監督で、なぜ『フォー・ウェディング』や『ハリーポッターと炎のゴブレット』を撮った監督がマルケス原作のコロンビア映画を担当するのか、だった。 観てみると納得。舞台の大道具から小道具、衣装などの味付けがゴテゴテしていてホグワーツのようで、一途すぎて恐ろしささえ感じるフロンティーノの愛が、意外と軽いタッチで描かれている。南米でなら通じる一途な愛も、イギリスの監督があつかうとこうなるのだろうし、こうなることを予想してニューウェル監督に撮らしたのだろう、と思ってしまった。『ノーカントリー』で冷酷無比な殺し屋を演じたハビエル・バルデムがまた違った意味で不気味なはまり役を演じている。 『ナイン』 ロブ・マーシャル監督 フェリー二の『8 1/2』をブロードウェイミュージカルにしたものを、さらに映画にもどすというややこしいことをしてしまった映画。じゃあも

文化が、特にインディオの文明が丸ごと破壊されるビブリオコーストについて。 ガレアーノ「火の記憶」 バルガス=リョサ「緑の家」 ラス・カサス、ベルナルディーノ・デ・サアグンなど。

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焚書というテーマはすごくおもしろい。おもしろいと言うと不謹慎だが、それでも不謹慎から生まれるロマンがある。秦の始皇帝の焚書坑儒からはじまり、十字軍によるエルサレムの焚書、異端審問による焚書、最近ではナチスの焚書、スターリン独裁下の焚書、毛沢東の文化大革命による焚書。それらの知識と記憶の抹殺によりこの地上から永遠に消えてしまった書物には、いったいどんなものがあったのだろうか。われわれが歴史的価値のあるものだと思って手にしているこれらの本は、われわれが失ってしまった本よりもすぐれていると誰が証明できるのだろうか。失われてしまった本には、われわれの知らないどんなことが書かれていたのだろうか。 エーコとカリエールの対談『もうすぐ絶滅するという紙の書物について』の中には、この焚書やビブリオコースト(ホロコーストの書物版)についての強力で具体的な示唆が山のように語られている。エウリピデス、ソフォクレス、アイスキュロスというギリシャ3大悲劇は古典を勉強したものなら誰でも知っている作家だが、アリストテレスは悲劇を論じた『詩学』のなかで多くの代表的な作家を論じながら、われわれの知る3大悲劇作家については名前さえふれていないのである。われわれが失ってしまったギリシャ悲劇は、『メデイア』や『オイディプス王』や『オレステイア』よりも歴史的な価値として低かったと誰が判断できるのか。エーコがなんどもこの対談のなかで言うように、「文化とは、つまり選別をおこなうもの」なのだろう。なんらかのきっかけや理由で「選別」されなかった、ただそれだけのことなのかもしれない。 なんらかの理由で時間がわれわれ人類の記憶から消してしまった古代ギリシャの詩も、アレキサンドリアにあったという大図書館が焼失した事件も、悲劇といえば悲劇ではある。しかし人間が、意識的に、しかも天災ではありえないほど暴力的で広範囲な文化破壊をおこなったビブリオコーストと比べれば、笑ってゆるせる出来事かもしれない。そのもっとも巨大で凶悪な文化破壊がスペイン人によるインディオ虐殺である。 アステカやマヤの文明は、スペイン人による人間の虐殺とともに永遠に滅びてしまった。だからわれわれは、アステカやマヤについて遺跡の記憶しか持っていない。たった500年前の高度な文明について語るものを、完全に失ってしまったのだ。それはまるで墓石だけが

電子書籍と古本屋の思い出 『もうすぐ絶滅するという紙の書物について』

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むかし古本屋でアルバイトをしていたときに、三島由紀夫の「仮面の告白」の初版を仕入れたことがあった。帯がなく、紅茶か珈琲かわからないが黒っぽいシミが表紙についていたが、生まれて初めて見る「仮面の告白」の初版、というよりも自分が扱った古書のなかでたぶんもっとも稀覯な書籍にそうとう興奮したのを憶えている。店長と相談し、出し値はたしか2万5千円ぐらいをつけたと思う。それでもあっというまに売れてしまった。 ウンベルト・エーコとジャン・クロード・カリエールの対談「もうすぐ絶滅するという紙の書物について」を読んでいて、その中でけっこうなページ数を割いて稀覯本自慢が載っていて、そのことを思い出した。彼らの言う稀覯本の1000万分の1にも及ばない稀覯本自慢だが、ふと「仮面の告白」の現在の価格を調べて見ると、な、な、なんと70万円しているではないか! (小宮山書店:1月7日時点で45万円に値下げしたようです) 物理的に存在することのない電子書籍では、この驚愕と喜びに対応する価値はあるのだろうか。禁じ手にも近く、まだ議論すべき段階ではないのだろうが、エーコとカリエールのこの対談が出るような時代になった以上、書籍愛好家は電子書籍に対してなんらかのスタンスを持たないと、書籍愛好道自体がゆるぎかねない時が来たのだろう。以下「もうすぐ絶滅するという紙の書物について」の書評風電子書籍論。 車輪、鋏、ハンマー、スプーン、本。 これらの共通項はなんだろうか。ウンベルト・エーコはこれらを、発明されたときにすでにそれ以上うまく作りようのない完成品だという。車輪と一緒で、本はこれ以上進化のしようのない利器だというのだ。 車輪を超える利器が今後発明される可能性はあるだろう。近未来を描くマンガでは車輪のない車が空中に浮いて走っているのをよくみかける。あのステキな車とそのテクノロジーが現実になれば車輪は自動車の世界から駆逐されるだろう。しかし、われわれが毎日座るデスクチェアの下にくっついているあのコマとよばれるちいさな車輪にも、その高度なテクノロジーが応用されるのだろうか。そもそもそのテクノロジーは、メソポタミア人が車輪を発明したように有機的な「発明」とよべるのだろうか。それはたぶん発明というよりも特許の観念に近く、ひとつの国や企業といった組織に属する「商品」としてしか現代では成立しないはずである。商品である以