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東北とは、東北復興とはなにか? 赤坂憲雄『東北学』柳田国男『雪国の春』

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青森県の下北半島を旅すると、夏でも寂寞としたその風景にぞっとすることがある。そこはわれわれの見なれた日本の風景ではない、どこか異界めいた違和感をあたえる「田舎」なのである。この違和感がなにかずっと気になっていたが、赤坂憲雄の『東北学』を読んで気がついた。下北にはわれわれ日本人がみなれた水田がないのである。平地や山間といったあるべき場所に水田がないだけで、風景がとつじょ異界じみて見えてくるほどにわれわれ日本人は稲作文化にどっぷりとつかっている。だからおなじ日本であるのに、水田のない下北半島は「異界」であり、「寂寞」とした親しみのないものになってしまう。 それぐらい、稲作文化は日本人の意識形成や価値観に影響をあたえ、いまや稲作のない日本や日本人は考えることさえできない状態にさえなっている。「日本人とは米である」と言ったってだれも反対する人はいないだろう。 そういう「米の国」を根柢でささえるのが、日本の穀倉とも言える東北地方である。「東北」ときいて最初に思い出すのが「米、水田、稲作」という人もおおかろう。 柳田国男が『雪国の春』で書いたのもそのような稲作文化圏の東北である。軒先まで雪に埋もれる東北だからこそ、その雪解けをよろこぶ風習のひとつひとつに稲作文化、つまり「瑞穂の国」の「常民」の姿がある、と書いたのだ。 赤坂憲雄は自著『東北学』において柳田民俗学のこの「常民思想」を批判的に展開するのである。柳田が言うように、ほんとうに日本は「瑞穂の国」という観念で統一的に論じることのできる土地だったのだろうか。 そもそも東北の別名「みちのく」は、畿内からみて海道と山道のつきる果ての「道の奥」という意味である。古代ヤマト朝廷の覇権の及ばぬところという意味である。 中央集権体制に移行しつつあった畿内ヤマト朝廷は、律令制が制定された7世紀頃からすでにこの「みちのく」へおおくの兵をおくっている。そのころの東北は「まつろわぬ民」であり、「蝦夷(えみし)」の国であり、完全に外国であった。 平安初期になると桓武天皇が3度、蝦夷征討をしており、かの坂上田村麻呂が征夷大将軍となって胆沢(現在の奥州市)のアテルイをようやく平定する。アテルイにかんする書物は『続日本紀』ぐらいしか記録がのこっていないようだが、寡兵で大伴弟麻呂を破るなどそうとうな蝦夷の武将であ

アートと政治性 『アイ・ウェイウェイは語る』

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安土桃山時代の名連歌師でもあり政治的有力者でもあった里村紹巴は1567年、40才のころ富士山をみるために旅にでた。 歌人としても政治家としても頂点にのぼりつめていた紹巴はどの土地でも盛大な歓待をうけ、土地の歌人や貴族、武将たちと連歌を詠んだ。そのことを、彼は自身の旅日記『富士見日記』に記している。 紹巴が尾張に投宿した晩のことだった。異変に気がついて目覚めてみると、西の空がまるで昼間のように光り明るかったという。彼は書いている。 「夜半過ぎ西を見れば、長島追落され、放火の光り夥しく、白日の如くなれば、起出で」 (ドナルド・キーン『百代の過客』) 紹巴が見たのは、現代でいうところのいわゆる「長島一向一揆」の戦乱の光である。「追落され」空が昼間のように明るかったという記述を考えると、信長が長島周辺の村をことごとく焼き討ちした「尾張長島焼き討ち事件」のことだろう。 しかし驚くべきはこのあとにつづく紹巴の和歌である。 たび枕ゆめぢ頼むに秋の夜の 月にあかさん松風のさと 燃えているのが無実の村人の住む村であったという認識は紹巴にはなかったかもしれない。あるいは紹巴は内心、本願寺を嫌っていたかもしれない。しかしすぐそばでいくつもの村が燃え、おおくの村人や門徒が死んでいることぐらい紹巴でなくても想像できるだろう。そのような状況で紹巴は、一向一揆にも本願寺にも焼き討ちにも、まして人の命の問題さえ完全に無視して、月夜の美しい旅枕を和歌にするのである。 もし現代、例えば大江健三郎が講演旅行中の岩手県で東北大震災に遭遇して、帰京後に燃えさかる宮古市を完全に無視して浄土ヶ浜の美しさを褒めたたえるエッセーかなにかを発表したら、彼の作家生命はそこで終わってしまうだろう。現代では、現実を無視して美を追究することはできないのである。 最近みすず書房から刊行されたアイ・ウェイウェイのインタビュー集『アイ・ウェイウェイは語る』(ハンス・ウルリッヒ・オブリスト著)を読んだ。 彼の現代アートがどれぐらいのものかは、美術オンチのボクにはわからない。しかしなぜ彼がアーティストとしても建築家としても最近ではアクティビストとしてもこれほどまでに重要視されているか、の理解の一助にはなった。 「ブログこそ21世紀の『社会彫刻』だ」という

水津さんとスーヴェニール・ハンター 『百代の過客』

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いまから10年ほど前、インド最北部ジャンムーカシミール州のさらに北東部、旧ラダック藩王国の首都レーという(日本からみると)ものすごく辺鄙な土地のさらに辺鄙な郊外の、まるで豚小屋のようなレストランでトゥクパ(チベット風すいとん)を食べているときのことだった。「ここのトゥクパおいしいですね」と、とつぜん日本語で話しかけられた。 いまでもそうだが、当時インドはパキスタンと核開発競争をしており、両国が領有権を主張しあうカシミール州への外国人立ち入りはこのラダック地方をのぞいて一切禁じられていた。カシミール州の最東部の、パキスタンとの停戦ラインまであと10数キロというところにあるダー村まで四駆にゆられていったときは、1日で10ヶ所以上の軍事検問があり、インダス川沿いには無数の軍事施設がみえた。うまれてはじめて至近距離で本物のM16だかなんだかの自動小銃をみたのも、その銃口がこちらをむいているという体験をしたのもこのラダック地方である。写真を撮ったらカメラを壊されるから、と現地のガイドに注意もされた。 そもそもレーという街は平地で3600メートル以上の標高があり、富士山の山頂より高いところの街なのである。暗いゲストハウスでろうそくを灯すと、炎がまるで小さく弱々しい。空気が薄く沸点が低いので、沸騰したお湯で煎れたはずのコーヒーがちっとも熱くない。ほんの数段の階段に息切れする。北部には世界一高所をはしる自動車道があり、南部のザンスカールは世界一辺鄙といっても過言ではないような、まるで月面のような死の世界が広がっている。そんな街である。 そこでとつぜん日本語で話しかけられたのである。見るとインドによくいるサドゥー(ヒンドゥー教修行者)である。白いヒゲもじゃで顔はわからないが、黒く汚い手足にボロボロの格好に杖、腰からぶら下げた水筒、まるでサドゥーにしかみえない。ビックリして話を聞くと日本人だという。「大阪の堺ですねん」ともいう。年を聞いてさらにビックリした。なんと80才だという。それからそのトゥクパ屋で1時間以上話し込んでしまった。話し込んだというより、水津と名のるそのサドゥーみたいなおじいさんの話を聞き込んでしまったのである。 聞けば定年退職後、年金でバックパッカーをしているという。少ない年金でも、外国なら日本の何倍もの贅沢ができてむしろ貯金もできてしまう。寝

文学は出世のためならず 『カフカの生涯』『百代の過客』『明月記』

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1924年に喉頭結核で死去するとき、フランツ・カフカは、人生のあらゆる局面で彼を支えた生涯の友人マックス・ブロートに自分の遺稿をすべて焼却するように遺言した。『断食芸人』などすでにいくつかの短編を発表していたカフカであったが、作家として生計をたてるという希望も第一次世界大戦勃発によりあきらめざるをえず、けっきょく一介の保険局員としてその生涯を閉じるのであった。 彼は、たたき上げで裕福な商人となった父ヘルマンとの確執に生涯なやまされた。文学に価値をみとめない高級ユダヤ商の父から、自分が終始うだつの上がらない保険局員どまりの男だと思われていることを彼はよくしっていたのだ。(池内紀『カフカの生涯』) ヘルマンの考える社会的な価値基準でみると、たしかにカフカはしがない薄給のサラリーマンにちがいない。もうすこし長生きして、彼がマックス・ブロートに「焼いてくれ」と頼んだ長編の『審判』や『城』や『アメリカ』が出版されたとて、目指すところが違う以上この父子は永遠にわかりえなかっただろうと思われる。フランツ・カフカが世界的に高く評価されるのは、1970年代を待たなければならなかったのだから。 文学が遅効性だということは、ほとんどだれでも認識していることである。しかしプルーストやジョイスとならぶこれだけの価値ある文学作品の評価が、まさか40年も50年もかかるとは、成り上がりのユダヤ商人の父でなくとも予見はできなかっただろう。しかし、社会的・商業的成功をおさめたはずの父ヘルマンは、50年後「フランツ・カフカの父」という立場に引き下がらざるをえないことになってしまう。 かといってどのような作家だろうとサラリーマンだろうと商人であろうと、自己の評価を自分の生前に置くか、その死後に託すかなどと明示的に選択することなどできはしない。その証拠にカフカだって友人のマックス・ブロートがその遺言通り彼の遺稿を焼却してしまっていたら、プルーストやジョイスに比するどころかウィキペディアにさえその名前はなかったかもしれないのである。 かようにその人の評価というものはコントロールしにくく、むしろ運任せにするしかないのである。たとえその作品の質が高かったとしても、世に出ることがなければ地中に埋まった人知れぬ財宝でしかないのだ。その上を歩く人にとって、それは存在しないと同義であり、存在し

おはぎと雇用と消費問題 アレント『人間の条件』『責任と判断』

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1940年代に売り出した当初、ケーキミックスはさっぱり売れなかった。ケーキミックスは、あんなに手間のかかるケーキを水と混ぜるだけで作れるようにした画期的発明だったのに、なぜか売れなかったのである。 悩んだピルズベリー社は心理学者でありマーケティングの専門家のアーネスト・ディヒターなどに調査を依頼した。ディヒターの出した調査結果は意表をつくものだった。ケーキミックスは便利すぎるから売れないというのだ。 アメリカ人にとってケーキは特別な料理である。家族の誕生日やクリスマスを祝うイベントの中心に位置するものである。そこがクッキーやパンケーキとちがうところだ。もしその料理から手間をとってしまうと、主婦や料理人にはなにがのこるというのか。手間がかかるからこそ、ケーキはだいじなお祝いの中心に位置していられるのだ。 そこでピルズベリーはケーキミックスから卵黄を取りのぞいた。家族のために「自分がつくった」と思い込める最後の一線として、卵を入れて混ぜるというプロセスをあえてのこしたのだ。(CURRiER Japon 10月号) 案の定、その後ケーキミックスは爆発的に普及したという。ケーキミックスがあたりまえになった今でもアメリカ人にとってケーキは特別な料理であるし、家庭ではいまもケーキがお祝いの中心に位置している。 ピルズベリー社がケーキミックスにほどこした卵黄を別にするというアイデアは、工業製品が家庭に侵入してくることの違和感を和らげるための懐柔策であったのだろう。ピルズベリー社のこのみごとな懐柔策によって、ケーキはその生産の場を家庭から工場に、それと気づかれずに移したのだ。もっと極端にいうと、ケーキが「産業化」され、経済の消費の側面から生産の側面へと立場をかえたのである。 同じように、ぼたもちやおはぎはごく最近まで日本の家庭で手作りされていた。お彼岸になると各家庭でぼたもちをつくり、おはぎを先祖にお供えしていた。 ところが都心部でおはぎをいまだに手作りしている家庭はもう稀だろう。ふつうスーパーとか和菓子屋とかで買うだろう。ぼたもちやおはぎは、ケーキのような懐柔策もないまま、その地位を産業に明け渡したのだ。 このように、最後の一線とおもわれていた家庭料理もいまや産業化され、経済構造の重要な一環となっている。「味気ない時代になった」と嘆くのは簡単だが、それではわれわ

日本人と日記 『百代の過客』『硫黄島からの手紙』

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学生のころ新聞社でアルバイトをしていた。ちょうどそのころ朝日の文化面にドナルド・キーンが連載をもっており、それを毎月楽しみにしていた。それが『百代の過客』である。 あれから20年ちかくたって、ドナルド・キーンももはや90才ちかいのである。東北の地震をみて彼が日本永住をきめたというニュースがながれたからかどうかはわからないが、つい先日、講談社学術文庫から『百代の過客』が文庫化されて出版された。あまりの懐かしさに文庫で1700円という破格にもめげず購入してしまった。 ドナルド・キーンが日本の日記という形式に興味を持つきっかけとなったのは、第二次世界大戦中、死亡した日本兵の日記を翻訳する仕事をしていたからである。軍事的記述や捕虜にかんするもの、あるいは日本軍の士気の様子をうかがい知ることのできるような情報がそこに記載されていないかをチェックするのである。 日記には、陸軍軍人として模範的なもの、無味乾燥な記述しかないもの、なかには墜落したアメリカ兵捕虜を斬首したという記述や、判読不可能なもの、血糊のこびりついたものなどがあったという。たとえばすぐとなりを併走する軍艦が突如魚雷により撃沈するさまをみたときの恐怖の記述は、どんな非文学的な書き手のものであっても「耐えがたいほど感動」するという。 あるいは南太平洋の孤島で7人だけいきのこった部隊が、正月にたった13粒の最後の豆をわけあって食べたという日記や、アメリカ軍に拾われることを予見し英語で「戦争がおわったらどうかこの日記を国の家族にとどけてほしい」と懇願するメッセージの書かれた日記なども多くあったという。しかも、彼が「はじめて親しく知るようになった日本人」であるその日記の書き手のほぼすべてが、キーンがそれを読んでいる時点ですでに死んでいるのである。ドナルド・キーンの日本人理解の根本にはこの体験があった。 第二次世界大戦で負け行く日本人兵士がなにかを書きのこすという状況で思い出されるのが、クリント・イーストウッド監督の『硫黄島からの手紙』である。 映画は2006年の現代、戦死者遺骨調査の隊員が偶然地中から大量の手紙が入った袋を発掘するところからはじまる。それは61年前にこの島で死んでいった兵士たちが家族にあてて書いた手紙であった。 劇中話されるほぼすべての言語が日本語で、主人公をふくめすべて

ダブル・シャンデリア期の思考と知覚 『複製技術時代の芸術』『声の文化と文字の文化』

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写真が芸術なのかどうか、19世紀にはさかんに議論された。いま読むと当時の論争はおそろしく的外れで不毛な議論のようにかんじられる。今日的で一般的な意見としては、写真が芸術であるかどうかなんて議論する必要もないほど「写真は芸術」であるといった解釈が圧倒的だろう。 フランツ・ヴェルフェル(1890~1945)は写真や映画といった具体的描写を得意とする芸術にたいして、「(写真や映画が)芸術の王国へ大きく飛翔することの障害となっていたのは、まちがいなく、街路、室内装飾、駅、レストラン、自動車、海水浴場といった外界を不毛にコピーすることである」と断言しているという。(ウォルター・ベンヤミン『複製技術時代の芸術』) 「映画は 真の意味、本当の可能性をまだとらえていない・・・その可能性は、自然な手段によって、そして比類のない説得力で、妖精的なもの、不思議なもの、超自然的なものを表現するという唯一無二の能力のうちにある」 われわれがおもう以上に、写真の発明からその作品が芸術であると認識されるまでの時間的道のりは長いようである。具体的な描写を得意とするがゆえに、写真や映画は「具体的すぎる」といって非難されていたのである。 19世紀におこなわれた写真芸術論争は不毛で的外れではあったが、その議論が活発であったことは、逆に議論するテーマがより深刻で甚大な影響をあたえるできごとであったという証明にもなる。芸術という分野で「世界史的大転換」がおこっていた可能性が史実として浮かび上がってくるのである。 19世紀末期にジョセフ・スワンが白熱電球を発明し、裕福な家庭に電線がひかれたとき、人々はダイニングにふたつのシャンデリアを飾った。従来のガスで灯るシャンデリアと、まだ不安定で一定時間しか送電されない電気をつかったシャンデリアのふたつである。この二重のインフラ時代を「ダブル・シャンデリア期」とよぶ。(マイケル・オンダーチェ『映画もまた編集である』) 蒸気機関が発明されたのち、船からセールとマストが完全に外されたのはそれから数十年ものちのことであるのと、状況はよくにている。 現代でいうなら電子書籍と紙の書籍、あるいは配達される新聞紙を購読しながらインターネットのニュースサイトもチェックするといった二重の冗長さがダブル・シャンデリア期に相当するだろう。テレビのデジタル化や印画紙とデジカメなどの二重性も

西と東の宗教観 『ツリー・オブ・ライフ』『ブンミおじさんの森』

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ヨブは信心深く真面目によく働き東国一の富豪であったが、ある日を境に突如不幸なできごとに見舞われるようになる。まず、シェバ人による家畜の強奪と使用人の殺戮である。つづけてメソポタミアの盗賊が何千とあったラクダを盗み彼の富は崩壊する。つぎにハリケーンに7人の息子と3人の娘すべてを奪われ、あげくの果てにはヨブ自身が重い皮膚病を煩うことになる。尋常でない痛みと痒みに灰の中でのたうちまわりながらも「神を呪って死ぬほうがましだ」という妻に「わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか」と彼はいい、神の仕打ちを受け入れるのであった。 心配し見舞いに訪れた友人たちは、ヨブのあまりの受難と苦しみをみていぶかる。彼はわれわれのしらないところで神に対する重大な罪をおかしていたのではないか。「だれか罪もないのに滅びたものがあろうか」と。友人たちはヨブに罪の告白をせまる。友人たちによる過酷な詰問と懺悔の強制により、とうとうヨブは神に疑義をもち問いかける。「わたしの知りえない罪があるのならば、その罪によってわたしは裁きの場に立つことを望んでいるのに、あなたはそれさえもかなえてくれない」。そしてさいごにヨブは神に対する重大な不信を口にするのである。 「どうしてあなたはなにもこたえてくれないのですか」 旧約聖書中もっとも「エキサイティング」といわれる『ヨブ記』のあらすじはこのようなものである。物語としても読んでおもしろく、受難者ヨブ、義の人ヨブ、反逆者ヨブとあらゆる解釈を許す懐の深さもある。なにより神の沈黙、絶望のなかでの信仰、そして自分で認識しえない自分自身の罪をいったいだれが告訴し、だれが裁くのかという西洋社会の根本的ジレンマがここにはあるのだ。 寡作で知られるテレンス・マリック監督のカンヌ・パルムドール受賞作 『ツリー・オブ・ライフ』 もこのヨブ記を基本のモチーフにしている。ヨブの問いかけに対する神の答えが、作品冒頭しめされる。 わたしが地の基を定めたとき、あなたはどこにいたのか。 あなたに悟ることができるなら、告げてみよ。 そのとき、夜明けの星はこぞって喜び歌い、神の子らは皆、喜びの声をあげた。 何億年もはるか昔、天地創造のころ人間はいなかった。もちろんヨブもいなかった。そんな永遠の時間のなかのほんの一瞬

インフレする暴力映画 『ファニーゲーム』

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父と母と息子ひとりのごく平凡な家族が避暑のため湖畔の別荘にいく。母が夕食の用意をしているとき、白い服に白いズボン、白い手袋をしたふたり組の男が「たまごを貸してくれ」といって突如やってくる。白手袋の男たちはそのままその別荘に居座りつづけ、家族を縛りあげたうえでこう宣言する。「おもしろいゲームをしよう。明日の朝までにきみたちが生き残れるか、それとも全員惨殺されるか、どちらかに賭けるのだ」。それから、白手袋たちによる罪のない平凡な家族の惨殺物語がはじまるのである。 ミヒャエル・ハネケ監督 『ファニーゲーム』 はほんとうに観客をいやーな気分にさせる最低のゴミクズ映画である。ここでは映画が潜在的に持っているすべてのセオリーと調和が、一切の容赦なく反故にされている。だからゴミクズ映画なのだが、しかし最強なのである。 まずもってこの映画はアンチスリラー映画である。正義がかならず勝つ、という映画制作者と観客の暗黙の了解が無視されている。いったんそのセオリーを解除してしまうと、観客は感情移入に混乱をきたす。感情的にぺったりと張り付く人物を見失って、映画鑑賞の指針を見失ってしまうのである。だから白手袋に憎悪をかんじながらも、なぶり殺しにされる惨めな家族によりそうこともできない。あくまでも被害者家族は第三者であって、鑑賞者である自分と主人公がぴったりと重なることはないのである。だから劇中、白手袋の男は突然スクリーンにむかって話しかけたりする。観客はあくまでも観客なのである。 次に、これだけ凄惨で救いようのない暴力を描きながら、ハネケはただの一度も暴力そのものを描写していないことがあげられる。この映画では、暴力はかならずスクリーンの外側で発生しており、われわれ観客はその事後によって不運な家族のひとりが殺されたことを知るのみである。 コワイ映画、凄惨な映画、グロテスクな映画であれば、この『ファニーゲーム』以上のものが山のようにあるだろうし、レンタルビデオショップにいけば専門のコーナーさえ用意されている。だがそんな映画をみても満足することはまれである。なぜなら観客はもう暴力のあらゆる描写になれてしまい、よほどの技術的新奇さがないかぎり満足できない体質になってしまっているからだ。当時は失神者が続出したというR・ブニュエルの『アンダルシアの犬』であるが、今では目玉をカミソリで切

『日本の作家が語るボルヘスとわたし』

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ボルヘスを直接語るのはなんだかコワイのである。『千夜一夜物語』や『ドン・キホーテ』を語るのはこわくはないのに、ボルヘスだと躊躇してしまう。 だからボルヘスの「周辺」をかたることでしか、(ボクは)ボルヘスを語れない。 だから明日、岩波書店から刊行される『日本の作家が語るボルヘスとわたし』を執筆する人はえらいと(ボクは)感じてしまう。よくボルヘスを語れたな、と。 『日本の作家が語るボルヘスとわたし』 http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/02/4/0247790.html 明日、買いに行こうっと。

レゴ・オリジナル・ミニロボット

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. ミニフィグが乗れて、なおかつなるべく小さいロボット、というお題で作成。この手の小型ロボットって、SF映画ではもううんざりするぐらい使われてますねー。『エイリアン3』とか『マトリクス3』とか『ガンヘッド』とか『第9地区』とか。無理だってわかってるのに、どうして二足歩行に憧れるんでしょうね、男子って。 前から。手は3本指。 後から。箱みたいなのはバックパック。

書かれたものは残り言われた言葉は飛び去る 『ボルヘス、オラル』『遠野物語』『平家物語』『千夜一夜物語』

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小学校のころ音読という国語の授業があった。もちろん今でもある。教科書に書かれた小説や詩を声に出して読むのであるが、これがなかなか厳しいもので、一字一句読みまちがえてはいけないのである。まちがえると、前にもどって訂正しつつ再読させられる。ひどいときなど数回読みまちがえると「立ってなさい!」と罰をうけたりする。なぜこんなに厳しいかというと、音読のもととなっているものが活字のテクストであるからだ。学校教育においては、テクストに書かれたことは絶対なのである。 人から聞いた話をまただれかにつたえるとき、最初の人の言い回しはほとんど無視される。話の筋や物語やオチが重要であって、筋をつたえるための語彙の選択やレトリックはこのさい関係ない。「山のようにおおきな鬼の影が、村をすっぽり包み込んでしまった」という話も、ひどい場合は「でっかい鬼が村にきた」とつたえても厳密にまちがいではない。まして訂正させられたり立たされたりするわけもない。なぜなら話者がもとにしているのは、文字ではなく話し言葉、耳から入る口頭の情報だからである。 ここが書き言葉(リテラシー)と話し言葉(オーラリティー)の違いである。 もともと文学とは口承の芸術であった。いや、文学だけではなく学問とはもともとすべて口頭でおこなわれていた。 ピタゴラスは膨大な数学的・物理学的・哲学的発見をしておきながら、一切文字に書き記すことをしなかった。はじめからピタゴラスは文字の効用を信じていなかったのだ。ピタゴラス教団においてすべては、口頭による伝承だけで受け継がれたのである。 そこにかの有名な言葉が生まれるようになった。ピタゴラス教団の師と弟子が議論をするとき、彼らは最後にこういうのである。「Magister dixit(師曰く)」。 これは議論の終了を意味する符丁でもあり、ピタゴラスという師の考えを反復する行為でもあり、実証的に正しいものを優先することでより真理に近づこうとする理論でもあった。ピタゴラス教団がかなりカルト的で謎めいていたこともあって、「ピタゴラスが言ったんだからそれ以上議論するべきではない」という妄信的な言葉であると思われていることが多いが、実際は真実だと決定できた事柄を同心円としてさらに論理を発展させるためのオープンエンドの言葉なのである。 ボルヘスは「知の伝承、伝達の絶対的

記憶と記憶補助装置としてのノート

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スーザン・ソンタグは「ノートとは、全てを主題とするものにとって、完璧と言える文学形式である」という。だからノート、というか記録のための道具はいろいろと試してみた。 しかし気づいたのは、憶えたことをメモしてもなんの役にもたたないということである。メモすべきは「忘れる予定」の事柄にすべきだ。 そして、記憶には短期記憶と長期記憶があり、メモは短期記憶であるはずの事柄を長期記憶におきかえる儀式でもある。 さらにいうと、記憶をノートやデータベースに移し替えるということは、書いた内容をそっくりそのまま忘れてしまうということである。忘れても大丈夫だという安心感が必要なのだ。 しかし、書いた内容はすべて忘れてもよいのだが、それを書いたことは記憶しなければならない。「なんだか忘れたがたぶんソンタグにかんしてのメモしたよな」という漠然とした記憶である。ここは人間の得意な記憶で、比較的長期記憶になりやすい。 イギリスの詩人W・H・オーデンはこう言っている。 「自分の知っていることしか書くことはできない。ただし書いてみるまでは、自分がなにを知っているのかということも、知らないことのひとつである」 写真を撮るとは、フレームに収まらなかったその他すべてのものを「撮影しなかった」ということでもある。絵を描くとは、その絵の対象となったもの以外は「描かなかった」ということと同義である。憶えるとは、憶えた事柄以外のすべてを知らないということである。 だから記憶とは、そして記憶の補助装置としてのノートとは、書いた事柄以外は、すべて記憶していないし書いてもいないということである。 記憶を誇ってはいけない。どんな人間でも、ボルヘスの恐るべき短編に書かれたすべてを記憶するフネスのような人間になることは不可能だし、むしろそんな記憶に本質的な意味はない。 われわれが意識すべきは、記憶された事柄によって、かえって未知という空虚がわれわれの周囲に広がるという事実だ。ひとつを知ることによって、その他すべてを知らないということをわれわれは知るのである。 .

編集もまた創作である。『映画もまた編集である』『ヒッチコック 映画術』『真夜中の子供たち』『人間の条件』

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10年のあいだにブッカー賞を受賞した全作品のなかから、さらにそのなかの最優秀賞をあたえるという派手な企画、ブッカーオブブッカー賞を受賞したサルマン・ラシュディの代表作 『真夜中の子供たち』 は、執筆当初ラシュディの自伝的なリアリズム小説であった。できあがった原稿をよみかえし、ラシュディは彼に影響をあたえたマジックリアリズムの手法を大胆にとりいれ、内容を組み替え、当初書かれた分量の半分をけずって現在出版されているかたちにおちついたという。いちど創作されたものの手法を入れ替え、物語を組み替え、半分にダウンサイズするのは、もはや編集というよりも創作そのものにちかい。ちかいというか、編集と創作は不可分だからそもそもわけて考えることのほうがほんとはおかしい。もともとの原稿からは似ても似つかぬはずの(残念ながらラシュディの最初の原稿は残っていない)あの歴史的な作品がうまれてくるなら、むしろ『真夜中の子供たち』にとっては、後半の編集作業のほうが真の創作行為と言えるだろう。 が、現実は「芸術」といえば奇矯な発想とそれをとりまくインスピレーションのことばかりが話題になりがちである。俳句や川柳であればインスピレーションの重要度はそうとう高いだろうが、芸術ぜんぶがぜんぶインスピレーションによって発生するわけではないのである。 とくに日本人の芸術家像には、気むずかし屋で一瞬のインスピレーションを最重要視し、短時間の爆発的衝動によって芸術を遂行する、自然主義を信奉する、ヒゲ面で破滅的な芸術家の極端なステレオタイプが存在しているような気がする。西洋の戯画にみる「出っ歯の日本人」とさしてかわらぬこの偏見み満ちあふれた芸術家観は、つまるところ芸術家の創作行為と、われわれが日々こなす労働がまったく別のものだと思い込みたい一般人のロマンチックな欲求からでていると思う。芸術はコツコツと労働をしつづける徒労とは対局にあると、どうしてだか人々は考えようとする。そしてその代償として、芸術家に芸術家ならではの苦悩をあたえて満足する。 ユダヤ系アメリカ人の政治哲学者ハンナ・アーレントはその著書 『人間の条件』 において、人間の活動を3つに大別している。1.活動、2.仕事、3.労働、である。 「活動」は人間関係においておこなう行為である。これは平等で差異のない人間同士のあいだにおこることである。この行為によって

サブリミナルの修辞学 『メディア・レイプ』ブライアン・キイ『映像の修辞学』ロラン・バルト

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サブリミナルの例 他の光源とくらべて、蛍光灯の光を「疲れる」という人がいる。よく聞く話である。なかには「チカチカしてる気がする」と表現する人もいる。インバーターでないかぎり、たしかに交流をつかう蛍光灯は電極の関係で1秒間に100〜120回ほど点滅をくりかえしている。これが「疲れる」原因であり「チカチカする」と感じる理由のひとつなのはまちがいなさそうである。 しかし理論上は1秒間に100回の点滅を知覚できる人はいないはずである。だから人間の知覚には、蛍光灯はつねに光っているように見える。それでも「つかれる」とか「チカチカしている」と人がいうのは、高速の点滅のように意識の閾値下でも環境やものごとを把握する能力があるということなのだろう。つまり知覚していることが、意識にのぼるすべてではないということである。 意識と潜在意識のこの能力に着目した表現方法がサブリミナルである。そのなかでもとくに有名なのはジェームズ・ヴィカリ博士が映画館でおこなった実験で、映画本編に非常に短いフレームレートでコカコーラの広告をはさむと、上映後のコーラの売り上げが18%だか20%だか伸びたという話である。 しかし、実はこれは眉唾もので、博士の発言以外にきちんとした論文にもなっていないし、そもそもこの実験そのものがおこなわれていなかったのではないかという指摘も多い。鈴木光太郎の著書『オオカミ少女はいなかった』には、オオカミ少女「アマラとカマラ」、「クレバー・ハンス錯誤」などとともに、歴史上にいくつも存在する心理学実験のデマであったと書かれている。 その後、研究室でなされたヴィカリ博士の同様の実験が予想していたほどの結果でなかったこともあり、閾値下の高速フレームレートが潜在意識と生体にどのような影響をあたえるのかはほんとうのところはよくわかっていないし、サブリミナルの恐怖は容易に人口に膾炙する、つまりゴシップになりやすいパラノイア的な要素を多分に含んでいることにも注目しておくべきだ。ただしいろいろな放送団体が自主規制しているように、視聴者の認識しえない部分においてメッセージを伝えるのはフェアでないことはたしかだろう。 メディアのなかの映像表現、とくに広告における表現に隠されたこのアンフェアさに鋭く切り込んだ書物といえば、やはりウィルソン・ブライアン・

ラプンツェル考 『グリム童話集』『ピアニスト』『競売ナンバー49の叫び』

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男性優位社会の日本では、女性は「家庭」という箱に閉じ込められているという。家庭の秩序をまもることさえしていればいいという社会の圧力は、おのずと女性から性別を超えた個人の能力や価値観、はては権利と権利の行使の意識さえ徐々に剥奪していくことになるだろう。たしかに、日本の社会がかかえる問題のひとつに、女性から剥奪されるこれらの社会性と、男性側からみた女性の価値基準が齟齬をきたしていることがあげられる。 日本の男性の擁護をするわけでもないし、まして合コンで「得意な料理は肉じゃが」と答える女性にときめく志向もまったくないが、ただ、女性を「閉じ込める」傾向はなにも日本独自のものではない。 『グリム童話集』 古くは1812年にドイツで出版されたいわゆる『グリム童話』に集録されている「ラプンツェル」は、魔女に育てられた髪の長い少女が出入り口のない高い塔に幽閉される物語である。改訂ごとに性的な逸話は削除されていったようだが、1812年の第一版では夜な夜なラプンツェルの髪をつたって塔を這い上がる王子と性交渉をかさね、身重になって以前の服が入らなくなることで魔女に妊娠をさとられ長い髪を切られたうえに高い塔から放逐される物語が描かれている。「ラプンツェル」は、女性と「閉じ込め」が結合したもっとも有名な物語だろう。 その後、王子は魔女にだまされて両目を失明してしまう。何年も荒野を放浪したあと、双子を出産し育てていたラプンツェルの歌声を聞いて巡り会った王子は彼女の涙で視力を回復し、ふたりは幸せに暮らしたという。 改訂で削除されていったとはいえ、「ラプンツェル」には性的な隠喩がおおくふくまれている。そのもっともわかりやすいのがラプンツェルの幽閉されている場所が塔であることだ。上空にむかってそそり立つ塔のイメージは男性器そのままである。幽閉されるなら魔女の住居の地下や納屋でもよさそうだが、そういった空虚ではなくあくまでも人目につきやすい直立建造物そのものを幽閉場所とする設定の無理は、この隠喩の隠された意味の重要性をあらわしているからだ。 しかしここで思いつくのは、このラプンツェルの物語に「父性」を象徴する人物が一切登場しないことである。 『クレオール主義』今福龍太 コロンビア大学のジーン・フランコ教授は、彼女の論文『エスノセントリズムを超えて』のなかで「ラテンアメリ