「ストラテジー」とはなんぞや? 経営戦略の間違った参考書たち 「ナコイカッツィ」「君主論」「リヴァイアサン」「老子」

ゴットフリー・レジオ監督の映画「ナコイカッツィ」は、一切の台詞、登場人物、俳優を使うことなく、フィリップ・グラスとヨーヨーマの音楽と映像を組み合わせたコラージュでできた映像詩である。この難解で豊穣すぎるイメージが横溢した映像の解釈はさまざまだろうが、「ナコイカッツィ」がアメリカインディアンの一部族のホピ語で「戦争の生」、「日常的な戦争状態」といった意味であることを考えれば、この映像に出てくる数々のイメージが、当たり前と思っている日常の中に内在する戦争状態を指摘しているだろうことは明白である。
「ナコイカッツィ」が描く「日常の戦争」は、映画、コンピュータ、インターネット、スポーツ、宗教、経済、企業と多岐にわたる。映画は自国の軍事力や文化的優位性の喧伝として発展し、コンピュータは核兵器とともに産まれ、インターネットは軍事通信として発明され、スポーツは戦闘をメディア化したものであり、宗教は弾圧と征服を繰り返す殺戮の文化であり、経済、企業は互いの絶滅を目指す組織闘争である。
特にここでは経済と企業が内在的に持つ先験的な殺戮の欲求に関して、その端的な考え方である「ストラテジー(企業戦略)」の参考書と思われる書籍をいくつかピックアップしてみたいと思う。
まず「ストラテジー」という軍事的イメージの強い語彙は、そもそも企業の標榜する消費者優先思想やCS、CSR活動、あるいは社会保障や雇用制度と常に相反する。それでも経営企画室やマーケティングなどのセクションではこの「ストラテジー」が闊歩している。しかも誰に対してのストラテジーかは問題にならない。顧客数を4年以内に2倍にする、といった前向きな経営企画さえもストラテジーとして語られてしまう。
これは参考書の読み違えが起こした悲劇だとも言える。参考書といってもドラッカーではない。そもそもドラッカーも経営が戦いだとは言っていない。マネジメントという問題に関しては、むしろ当たり前すぎるほどあたりまえなヒューマニズム的経営倫理を語っているにすぎない。
そう考えた上で、企業がマネジメントをストラテジーととらえてしまうこの悲しい癖の由来をいくつかピックアップしようと思う。これらの本はあまりに高級すぎ、あまりに人間の本質をついているので、鬱病を大量に排出するこのギスギスした現代の組織では、どうしても人間が本質的に持つ悪の側面ばかりに注目してしまうのだろう。この本のうち、そのようなことを言っているものはいないのだが・・・。


「君主論」マキアヴェッリ

マキャヴェリズムの語源にもなったマキアヴェッリの主著「君主論」は、ルネサンス期のイタリアを統治するメディチ家の新しい統治者ロレンツォ・デ・メディチに献上するために書かれた、統治者の振る舞いと思想に関しての徹底的なリアリズムの書籍である。
そこに語られるのは理想や統治者倫理や宗教とは完全に切り離された、統治するものがすべき行動と規範と思想の徹底的な具体論である。外交上にこういった問題がある場合はまずこうしなさい、とか、軍備をするならまずこう考えて統率をとるべきだとか、ほとんどハウツーブックの勢いで具体例が書かれており、さらにマキアヴェッリの経験から引用される現実の実践結果まで参考として記載されている。
このあまりに具体すぎる方法論が、現代人の過ちを誘ってしまった。具体的な人間の行動思想を、システムとしての組織維持に具体的なまま当てはめる経営者が続出したのだ。そうあって欲しくはないが、もしかすると経営者は君主かもしれない。しかしここで読み取るべきは人間と組織の持つ動きへの鋭い推察であって、メディチのようなここで書かれた君主の行動をそのまま実行せよというものではないはずなのだ。


「リヴァイアサン」ホッブズ

恐ろしい本である。しかし国家論としてはもっとも偉大な思想かもしれない。国というものを考えるとき、この「リヴァイアサン」は避けて通れない。
「リヴァイアサン」では、人間が先験的に持つ悪、暴力、破壊の本質を、秩序と平和に質的転化するための人工人間としての国家の必要性を説く。それは絶対君主を理想とし、聖書にあらわれる「人間よりも強く神よりも弱い」と言われる生物、リヴァイアサンを国家のすがたとする。
そこからホッブズは国家形成に必要なファクターをひとつずつ検証し、社会契約を通して国家のなすべきことを理論的に証明していくのである。
ホッブスの思想の偉大なところは、歴史上はじめて国家論を理論的に証明したことにある。しかしその結論が絶対君主であり、人間以上のちからを持つリヴァイアサンであったことが後の悲劇を生む。悪に魅入られた、あるいは国民を尊重することのない君主にとってはこの論理的証明はとうぜんバイブルとなる。自身を君主と重ね合わせるという幻想に魅入られた経営者は、ホッブズの力強い理論を手に入れようとこの本を読む。
そこがこの本の悲劇である。しかし、人間の本質を善とする見方以外を完全否定する現代のヒューマニズムと比べるとき、「リヴァイアサン」はむしろ戦争を回避する有効な手立てとはなるだろう。


「老子」

上記2冊の本とは比べものにならないほど老子はストラテジーからほど遠い。しかし老子は経営のバイブルたることをやめようとしない。その理由のひとつに、同時代の孔子の存在があるのかもしれない。孔子は礼、仁、といった人間個々の振る舞いについての書物であり、儒教はそれを教義にまで広げた希薄な宗教である。ところが老子の語るのは人間一般の行動原理であり、その行動原理を見据えた上での対処方法である。対処も立場が高くなると管理方法や統治方法となる。老子は特定の立場の人間に対してこの書物を書いたのではないが、孔子と比較するとき、統治理論までをも含有する懐の深さが現代の偏狭な読み込みを許す結果となった。
しかし老子は結局「道」についての指南書である。孔子がどう振る舞うかだとすると、老子はどのような道が今後やってくるのかを予言した書物である。そこには戦略と呼べるようなものは書かれていない。
むしろスノッブな経営者が中国古典にストラテジーを求めるなら、韓非子だろう。権力維持への韓非子の徹底的な考察は、たしかに具体的な「マネージメント」であり、「ストラテジー」である。それを実践したからといって組織が永続したり売上が上がる保証はどこにもないが。

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