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12月, 2010の投稿を表示しています

LEGO テクニック・コンテナトラック 8052 他いろいろ。

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レゴテクニックのコンテナトラック(8052)を作りました。息子がサンタクロースにもらったものです。 今まで作ったテクニックのなかで最大かも。 スイッチの切り替えで、コンテナを後方に置くことも、傾けて積載物を排出することもできます。この切り替えのギミックが見所です。 その前は、レゴテクニック・ミニテレハンドラー(8045)を作りました。 車体後方のギアを回すとアームが上がって荷物を持ち上げます。 ウォームギアの使い方の見本のような動きです。 むかし買ってきて作ったレゴを、数年後にインスト見ながらまた作るのは、当時作ったのとはまた違う楽しみがあるもんです。 ということで、オビワンのジェダイスターファイターを作りました。 数個、部品が行方不明でしたが。 同時に息子がドロイドスターファイターを作りました。 この商品に関しては、八重洲のクリックブリックで買ったことしか憶えてません。

LEGO10181・エッフェル塔(再) 時価で言うと7万円!

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以前買って作ったレゴ・ボーイング787ドリームライナーがすごくよい作品だったので、似たような臭いのする16,500円のレゴ・スペースシャトル(10213)をアマゾンのカートに入れておきました。それがたしか今月の21日ごろ。 買う決心がつかず、なにかのついでに一緒に買おうと思ったまま4日ほど過ぎていざ決済画面までいくと、なんと値段が25,480円に値上がりしてるじゃあないですか! アマゾンといってもマーケットプレースだから、たった4日で9,000円近く値が上がったわけです。みんな株なんかやめてレゴを買うべきです。 ためしに他の値上がりしそうなレゴを調べて見ると、ややや、カフェコーナーが63,000円、フォルクスワーゲンビートルが28,000円、クリエイター・ジェット機が14,800円、クリエイター別荘が30,000円とボクの持っているものも多く値上がりしていました。なかでも一番すごいのが、レゴ・エッフェル塔(10181)で、なんと74,260円!! 持ってます、もってます! 当然、半額以下の定価で発売日に買いました。しかし残念なことに開封して、作ってしまっています。これじゃあ価値ないな・・・。 というわけで、レゴのエッフェル塔を3年ぶりにもう一度つくることにしました。7万円だと思うといても立ってもいられなくなったのです。部品を箱に取り分けておいてよかった。 まずは脚の部分のセーヌ川むきの半分ができあがり。 発売当時、エッフェルの曲線美が表現できていないという酷評も多々あった部分です。たしかに左右の脚をつなぐアーチがきれいな半円になっていません。 しかしエレベーターの表現など芸が細かいのは何度みてもかわいいです。 エレベーターは2機あって、1機は「ジューヌ・ヴェルヌ」という一つ星レストランへの専用エレベーターです。 モーパッサンが通ったというのはここのことでしょうか? ちなみにモーパッサンがエッフェル塔のレストランに通った理由は、ここが唯一「あのいまいましいエッフェル塔を見なくてもすむ場所だから」ということだったそうです。 反対から見るとこんなかんじ。左の脚元に茶色のチケット売り場があるの、わかりますでしょうか。 残り半分の脚も完成。上に第一展望台部分をかぶせます。 この第一展望台の周囲の窓枠に、2×1ポッチと向き変

「ストラテジー」とはなんぞや? 経営戦略の間違った参考書たち 「ナコイカッツィ」「君主論」「リヴァイアサン」「老子」

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ゴットフリー・レジオ監督の映画「ナコイカッツィ」は、一切の台詞、登場人物、俳優を使うことなく、フィリップ・グラスとヨーヨーマの音楽と映像を組み合わせたコラージュでできた映像詩である。この難解で豊穣すぎるイメージが横溢した映像の解釈はさまざまだろうが、「ナコイカッツィ」がアメリカインディアンの一部族のホピ語で「戦争の生」、「日常的な戦争状態」といった意味であることを考えれば、この映像に出てくる数々のイメージが、当たり前と思っている日常の中に内在する戦争状態を指摘しているだろうことは明白である。 「ナコイカッツィ」が描く「日常の戦争」は、映画、コンピュータ、インターネット、スポーツ、宗教、経済、企業と多岐にわたる。映画は自国の軍事力や文化的優位性の喧伝として発展し、コンピュータは核兵器とともに産まれ、インターネットは軍事通信として発明され、スポーツは戦闘をメディア化したものであり、宗教は弾圧と征服を繰り返す殺戮の文化であり、経済、企業は互いの絶滅を目指す組織闘争である。 特にここでは経済と企業が内在的に持つ先験的な殺戮の欲求に関して、その端的な考え方である「ストラテジー(企業戦略)」の参考書と思われる書籍をいくつかピックアップしてみたいと思う。 まず「ストラテジー」という軍事的イメージの強い語彙は、そもそも企業の標榜する消費者優先思想やCS、CSR活動、あるいは社会保障や雇用制度と常に相反する。それでも経営企画室やマーケティングなどのセクションではこの「ストラテジー」が闊歩している。しかも誰に対してのストラテジーかは問題にならない。顧客数を4年以内に2倍にする、といった前向きな経営企画さえもストラテジーとして語られてしまう。 これは参考書の読み違えが起こした悲劇だとも言える。参考書といってもドラッカーではない。そもそもドラッカーも経営が戦いだとは言っていない。マネジメントという問題に関しては、むしろ当たり前すぎるほどあたりまえなヒューマニズム的経営倫理を語っているにすぎない。 そう考えた上で、企業がマネジメントをストラテジーととらえてしまうこの悲しい癖の由来をいくつかピックアップしようと思う。これらの本はあまりに高級すぎ、あまりに人間の本質をついているので、鬱病を大量に排出するこのギスギスした現代の組織では、どうしても人間が本質的に持つ悪の側面ばかりに注目して

人称の問題をどうするか? 語り手の位相と神の視点 『若い小説家に宛てた手紙』『わたしの名は紅』

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小説を書くとき、テーマの次に決定しなければならない重要な問題のひとつに人称というものがある。「わたし」でいくのか、「彼」でいくのか。三人称であるならそれは誰なのか。あるいは「わたし」が主人公でなければならない理由がない以上、「わたし」とはだれなのか。 今年度のノーベル文学賞を受賞したマリオ・バルガス=リョサは「若き小説家へ宛てた手紙」の中でこの問題を「空間的視点」と名付けた上で、以下のように整理している。 (a) 文法の一人称を用いた場合、語り手と登場人物が同一人物になりますが、この視点に立つと語り手のいる空間と語りの空間は重なり合います。  (b) 文法の三人称を使った場合、語り手は全知全能の存在になり、物語の中で事件が生起する空間とは別の、独立した空間に身を置いています。  (c) 文法の二人称「君」を用いた場合、語り手はその背後に隠れて曖昧な存在になります。物語空間の外側にいて、フィクションの中で事件を起こさせる全知全能の語り手の声になることもあれば、物語に巻き込まれたものの、小心さ、用心深さ、分裂症、あるいは単なる気まぐれで自己分裂を起こし、読者に語りかけると同時に自分自身にも語りかける語り手の声という可能性もあります。 その上で空間的視点の移動として、セルバンテス「ドン・キホーテ」とメルヴィル「白鯨」をあげる。「ドン・キホーテ」では有名な冒頭「その名前を思い出したくもないラ・マンチャのある場所に・・・」を引いて、この部分では「私」であった視点が、物語が進むにつれて全知に近い「神のライバル」の視点に移動する、と書く。また「白鯨」では語り手であるイシュマエルを奇跡的に最後まで生き残らせることで、残された手記と絶望的な殺戮の両方に矛盾がないようにしているが、そのことを告げるあとがきはイシュマエルではなく全知の語り手の視点に移動していると書く。その他にフォークナー「死の床に横たわりて」、フローベル「ボヴァリー夫人」などの例をあげる。 語り手がだれかは重要な問題ではないと言えたのは、ロマン主義文学の時代までのことである。近代、とくに20世紀後半からはむしろその部分をどう克服していくかが文学の重要なテーマとなり、ときには小説のテーマよりもこの問題を乗り越える技法そのものが重要になる場合もあった。 21世紀の今でも、