「ファミキャン」ブームがきもちわるい件について。『イントゥ・ザ・ワイルド』『地球の上に生きる』


学生のころよくキャンプをしていた。はやっていたわけではないので、今でいう「マイブーム」みたいな感じだろうか。しかしキャンプが一般的なブームになり、自分も就職し仕事がいそがしくなると行かなくなる。つぎに子供がうまれて「第二次キャンプブーム」がやってくる。現に今やってきている。
「第二次キャンプブーム」は、半ば野宿みたいな学生のキャンプとはちがうので、それなりにお金もかける。かけるというと大げさだが、子供もいるので最低限の環境は必要になる。仕事の合間の限られた時間を使ってのキャンプだから行き当たりばったりに出かけるわけにもいかず、フリチン立ちションの男同士でもないからおのずときれいなキャンプ場を予約することになる。
そうやってかつては毛嫌いしていた高規格なキャンプ場に行くと、ものすごい数の家族がきている。「そうか、キャンプは今ブームなのだな」と今さら気がつく。
だから高規格キャンプ場に行くと似たようなテント、タープ、椅子、机、ミニバン、家族、子供が区画されたサイトにきちんとならんでいて、それはまるで孵化器にならんだ卵かひよこのような印象である。
そうなると違いを出すには道具しかない。スノーピークのテントを持つ家族はコールマンのそれを笑い、MSRの家族はスノーピークのそれを笑う。面と向かって笑いはしないが、ナチュラムあたりでは、ほのぼのとした家族愛の仮面を被ったブロガーが、やさしく、楽しそうに、お互い見栄の張り合いをしてる。けっきょく、マンションやアパートなどの集合住宅や区画整理された郊外住宅の狭い範囲におこるあのギスギスした近親増悪が、それを逃れるためのキャンプ場でも再発してるとしか思えない。きっと行き帰りのミニバンの中でも同じことなのだろう。日本で仕事をし、家を用意し、子供を育て、レジャーをするとは、とどのつまりこの手の「他人との関係性」をつづけることなのだろう。希薄でありながら粘着質、均一を尊びながら他をさげすむ。住宅地、高速道路、キャンプ場、公衆浴場、ショッピングセンター、アウトレットモール、最近では登山道。およそ「家族」同士がすれちがう場面ではほぼこの手の「きもちわるさ」が充満している。
こういうきもちわるさから逃れたいと思う。逃れるためにはこのきもちわるさの根本を定義しなくてはならない。なにが「きもちわるい」のだろうか。

まず、区画整理されたサイトにほぼおなじ内容がならんでいるのがきもちわるい。一人キャンプや学生のサークル、女子ばかりのチーム、子供をつれたボーイ・ガールスカウト、そんな多様性があってもいいようなものだが、まずもって絶対的に子連れなのだ。しかも幼稚園から小学校高学年までの子連れ。キャンプは日本の子育ての重要な通過儀礼だったのだろうか。通過儀礼だとして、この儀礼を「ファミキャン」と言うらしい。ファミリーキャンプの略だろうが、すごくきもちわるい。
つぎに道具がきもちわるい。先述したが、非常に小さな部分で差別化を行おうとするから、車も家族構成もいまさら変えられないし変えるつもりもないので、キャンプ道具でほんのちょっとだけぬけがけてみたいと考えるところがきもちわる。もっと大きなところでレジャーのパラダイムシフトをこころみればいいのではないか、と思うのだ。
そのつぎにみなが帰って書くブログがきもちわるい。サーチエンジンでキャンプ場名を検索してみると、読み切れない量のキャンプブログが出てくる。よかっただの悪かっただの、マナーがどうした、トイレの掃除がどうしたと、まるで今はやりの「学校裏サイト」そっくり。ブロガーの「勝ち組」に入ればブロガー同士のつながりが持てアフィリエイトの売り上げもあがるが、異分子は「うるさい」「ルール違反」「初心者」ということで排除される。似たものだけがつながっていく構図がいじめみたいできもちわるい。


そもそもアウトドアとはなんだったのかを探るべく、アリシア・ベイ=ローレル著『地球の上に生きる』を読み返してみた。
これは70年代のヒッピーブーム期にベストセラーになった、今でいうアウトドア・エコロジーの教則本である。バックパックのしかた、自然物をつかったシェルターの作り方、野外での洗濯のしかた、天然酵母パンの作り方、サリーの着かた、食物の植え方など、脱文明に対する総合的なガイドが、手書きの文字と脱力系のイラストでかかれている。著者自身も長い放浪のはてに西海岸の「ウィーラーズキャンプ」という非暴力主義のコミューンで生活しつつこの本を書いたそうだ。
そうとう久しぶりに読んだが、最近の「ファミキャン」ブームなんかよりもっときもちわるかった。
時代が違うといえばそれまでだし、ヒッピーとはそういうものだといえばもっとそれまでなのだが、まず根本的な解決に関してはいっさい触れていない。あまりの近視眼とオプティミズムにおそれおののくばかりである。ヒッピーは自然との共生というところまでたどり着いていながら、なぜ最終的な回答を前にして、せまい社会へ逃げ込んでしまったのだろうか。この本はそのせまい社会を色濃く映し出している。日々のハウツーが満載だとしても、実践する思想、根本問題への対処、普及の意味、それらがなくては昭文社とかの「今すぐはじめるファミリーキャンプ」みたいな現代のムックとかわりばえしないではないか。

先日鑑賞した、ショーン・ペン監督「イン・トゥ・ザ・ワイルド」もおなじ末路をたどってしまっている気がする。そんな極端な若者もいました、という話ならおもしろく観賞できたのかもしれない。しかしここまで主人公に近い視線で物語をすすめられると、見る者は感情移入せざるをえないのだ。ところが感情移入するには、この主人公はとっぴすぎる。ましてヒッピーを知らない現代人には彼の目指したものがまったく理解できない。この映画の批評をブログで検索すると「自然との共生をめざした」とか「文明をすて一人の人間として生きた」といった趣旨の文章が多くみられる。今の日本では、彼の行動は結局そのようなステレオタイプの「エコ」でしか受け取られないのだ。その先の彼が持っていたかもしれない理想が、われわれには見えないのだ。なぜなら、主人公の彼にも、「地球の上に生きる」のアリシア・ベイ=ローレルにも、そのほかのどのヒッピーにも、そんなものはじめからなかったのだから。なのに、ショーン・ペンはそこを観客に見せようとした。彼にはそれがあったかもしれない。しかしデニス・ホッパーのようにヒッピーの「破滅」ではなく、感情移入という正攻法で描写しようとすればするほど、広がれば広がるほど破綻するという「破滅」の実をひめたヒッピー思想は、彼のカメラに写らなくなってしまったのではないだろうか。

けっきょく、「ファミキャン」のきもちわるさから逃れてヒッピー系書物と映画に頼ってみたが、こちらもなんだかきもちわるい。
アウトドアとは一体なんなんだ? 
現代のフェス系アウトドア人口がもうすこし大人になって、成熟したレジャーとしてのキャンプがうまれることを望みつつ、ボクは「ファミリーレイヴ」という新ジャンルを設立しようと思う。
(敬称略)




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